2011年11月05日
ラジオで耳にした歌がなかなか良かったので、TSUTAYAでアルバムを借りてきた。曲や歌は気に入ったのだが、CDに添えられたブックレットを読んで、少し、ひっかかるような残念な気持ちになった。

そのブックレットには作曲した人とゲストの対談のようなものが書かれていたのだが、スーツを着たサラリーマンが宇宙人のように感じるという類のことが書いてあった。また、主婦の集団にも似たような感覚を覚えるとも。言外に彼らに対する蔑みが感じられて、その根底に、彼らの生き方に没個性や単調さを感じ取っているように思えた。

十代の頃はアイドルグループの一人ひとりに個性と魅力を感じたのに、彼/彼女らと年が離れるに従って同じ顔に見えてくることは私も経験済みである。自らが女子高生であったときは、「一人」で電車に乗っていたけれど、いざ制服を脱いでみると、電車に乗っている女子高生は集団にしか見えなくなることも。ちなみに女子高生であったときは、スーツを着たオジサン達は集団に見えたし、一人が行儀が悪ければ、オジサンみんなが行儀悪く見えたものだ。

しかし、制服やスーツでもない私服姿の者も、サラリーマンの中に紛れていたら目立つかもしれないが、繁華街であれば、人ごみの一部に過ぎない。いわんや、規格化されたCDが商品棚に並ぶ姿など、「みんな同じに見える」。

スーツを着たサラリーマンの人生がレールに乗ったものなのかと尋ねられれば、否とは言わない。売れるかどうか、食っていけるかどうかの保証もない音楽の世界で夢を追い求める方が難しいに決まってる。

個性とは、外的刺激に対する反応の差異のことだから、その差異によってレールなき道を歩くことになり、なおかつ諦めずにいる人を私は素直に尊敬する。だけれど、その差異の希少性が「尊い」のは、それが社会規範の許す範囲内に収まる場合で、なおかつ市場がそれに価値をつけるからであって、本来差異は希少であろうとなかろうと個性には変わりないのだ。

「尊くない」個性を理解しない者のもつ「尊い」個性を理解できない者が愚鈍であると決めつけるのは単なる無知ではなかろうか。自分の人生を生きていることに誇りは持てばいい。でも、そのために、自分が理解できない人生を歩む人々を引き合いに出すのは低俗じゃないか。

とは言いつつ、例えばこれ見よがしに他人の服装にケチをつける類の人は、大抵無難だがセンスの悪い人が多いとも思ったりもする。希少性の高い個性を持つ人々は、マジョリティに迫害されて、あるいは恨みつらみを抱えているのか。

ザマーミロ、お前たちにバカにされた俺が今ここにいるぜ!と吼えられない私が彼らに謙虚さを求めるのも、ルサンチマンの一種なのかもしれない。




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夏に、映画『ソーシャル・ネットワーク』を見た。単純に影響を受けて、Facebookを始めたのが、かれこれ3ヶ月ほど前か。

Twitterには完全に乗り遅れていたので、Facebookの短文に適した投稿方法に最初は戸惑った。しかも、友人として「つながった」人のニュースフィードの画面には、自分の投稿した記事がデカデカと載るようなので、書く内容も制限される。すなわち、普段知人と会い、まず一声で話し始めて差し支えのないような、棘のない、あるいは意味のないことばである。

Facebookに「近況」を入力をしようとすると「今なにしてる?」と訊いてくるとおり、今まさにしていること、感じていることを書くのに相応しく、考えていることを書くには適さないツールだと気づいた。

Facebookに短くとりとめもないことばを投稿していると、最初は思考停止に陥るのではないかと訝しんだが(いや、実際、思考停止にはなりつつあるのかもしれないが、それはともかく)、不思議に善良な気持ちになってくることに気づいた。「友人」の誰が読んでも差し支えないように、政治的なことは書かない、性的なことも書かない、批判的なことも書かない。それらを取り除き、生活の中の書くに値する事柄を探すのは「良かった探し」に似ている。

私の生活から怒りや悲しみを取り除くと、こんなに平和で幸せな人生を送っている人間がいるのかと改めて思う。耳障りのよいことばばかりを吐いていると、善人ぶっているようで後ろめたくもあるが、そのような人間にもなり得る自分を発見したような妙な気持ちがする。


※ Facebookはスマートフォンの普及以前から存在するが、iphoneの普及によって「現在地」とは現住所のことではなく、今まさに私が立っているこの地点のことを示し、また「今」とは現在のことではなく、今まさにこの瞬間のことを指し示す(つまりは点の粒が小さくなった)ように感じる。Facebookはそういう感覚にかなりフィットするツールなのだと思う。


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2009年02月26日
新しく新入社員が入ってくるにあたって職場の案内を頼まれた。ついでのように「既婚者だから変な気を起こさないように」。

それを冗談だと思えるなんて。

笑って「失礼なぁ」と言っている自分が虚しい。
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2009年02月25日
性別役割分業を批判する立場にいながらも、「専業主婦」を安易に否定できない理由はいくつかあるだろうけれども、一つは「専業主婦」の否定が、育児や家内労働(以下、再生産労働)の価値を矮小化し、それが生身の母を敵に回してしまうのみならず、市場労働中心の価値規範に絡めとられてしまいがちなことにあると思う。

フェミニズムはよく誤解されているが、女性に男性と同様の働き方を推奨する思想ではない。とにかく働いて賃労働の中に自分の生きがいを見つけなさい、それこそが自立で「自己実現」なのだなどど主張するフェミニストはまずいないだろう。

とはいえ、現在の実社会の中で、家父長制や性別役割分業に回収されることなく、それでいてマージナルな領域にも価値を認めるような生き方を模索することは、並大抵のことではない。

教壇に立って、「専業主婦」を夢見る女子大生と対峙するとき、再生産労働やその他の賃金に還元されないマージナルな活動の価値を低減させることなく、そのような生き方を女性の役割として安易に選択あるいは受け入れることの危険性をどのように説いたらいいのか悩む。

おそらく、これは私がフェミニストだからというわけではなく、社会で活躍することを学生に期待する多くの教員は、「楽だから」とか「働きたくないから」という理由で「専業主婦」になりたがる学生に対して何某かのコメントをしたいと思いながらも、それが押し付けになることを怖れて、ニュートラルな意見を言おうと苦心しているように思う。

確かに、天職を見つけるだとか仕事で自己実現するなんていうことは、かなり怪しげだし、就職できない学生に「仕事をせねば人にあらず」と思わせるのはおかしい。

それでも、大学は学生を卒業後に当然、社会に資する仕事につく者として扱うべきだと私は思う。

大学などの教育機関の外側では、女性はいたるところで「働かない」という選択肢をちらつかせられて、働く・働き続けるということを主体的に選ばなくてはならない。そしてその選択に理由を求められることになる。ずっと子ども扱いを受けてきた学生時代を終え仕事に就き、嫌なこともあるけれど自分の力を発揮する場を得られれば、仕事ほど楽しいものはない。それなのに、何故働くのか・頑張るのかを暗に明に問われるのでは、やりきれない。むろん、置かれる状況は就職先によっても異なるだろうが。

そのような女性をとりまく社会的状況の中で、大学の教員が女性の働く・働かないという選択についてニュートラルであるべきだろうか?

女性が市場労働で活躍することの困難が男性より大きいのだとしても、それをもって「専業主婦」を避難場所として選択することを、社会に人材を輩出すること使命とする教育機関が留保なしに認めるべきだろうか?

一方で、女性は子育てや家事に幸せを見出すのが当然という観念が残存しているのに、他方は働くことに幸せを見出すのが当然とは言い切らないで、どちらとも言えるね、では、仕事で頑張る女性や仕事と家事の両立に苦心する女性の立つ瀬がない。

今の社会で、女性を「働いて当然」として扱えるのは誰なのか、考えてみれば、大学の存在は大きい。賃労働に必ず就けとは言わない。しかし、少なくとも社会に資する仕事、私(わたくし)に向かうのではなく社会に向かう活動に参与するのは、社会構成員として、また大学教育まで受けた人間として当然のことだとして学生に接するべきではないか。

最高学府の女子学生さえ、クリントン氏の活躍を特別な「強さ」と捉える教育の現状を日本は恥じるべきだと思う。
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2008年02月10日

【派閥】
政党その他の集団の内部において、出身や縁故、特殊な利権などによって結びついた排他的な集まり。
三省堂提供「大辞林 第二版」より


うちの職場にも昔はいくつかの派閥があったらしい。今残っているのは、1つだけなので言ってみれば仲良しグループのようなものなのだが、人事などに口が利くという力のために、一線を画している。

派閥があればアンチ派閥がある。

横暴な力を行使しているのは派閥の方なのだから、なんにせよ、彼らの方に問題があるというのはわかっているのだけれど、個人的には普通の気のよい人々なので、彼らと仲良くすることで「派閥のイヌ」になったのかと疑いの目を向けてくるアンチ派閥の人々を時々見当違いに恨みたくなる。

実際にしている仕事の内容や出来ではなく、誰と仲良くしているかなんてことで、仕事上の関係をギクシャクさせるなんて子どもじゃないか。

そしてそれに振り回されている私も、子どもだ。みんなと距離を置いて付き合えばいいものを、八方美人に誰とでも仲良くしようとするからこんなことになるのだ。
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派遣で事務をしている方の大学で、研修を受けた。

心理的に問題を抱える学生や学習障害をもつ学生への対応に関する研修会で、複雑な気分だった。

自分も軽度ながら学習障害と言われたこともあるし、それがないにしても、勉強に打ち込めないことに悩んでいるとして、手を差し伸べてくれる人・機関が大学内にあるとしたら、それは本当に救いになると思うのだ。「希死念慮」というらしいが、家族と離れて多感な大学生活の中で生きる希望を見失ってしまったとき、話す相手がいることがどれだけ救いになるかと思うのだ。

だけれども、大学で学ぶことは決して「人として学ばなければならないこと」なわけではない。なんとなく入った大学をなんとなく辞めてしまったとしても、それ自体はそもそも問題とは言えないはずだ。大学で友だちができない、授業に出る気にならない、そういう事態のどこまで大学が<教育として>関わるべきなのだろうか。学生のわがままに過ぎないと言いたいのではない。大学に適応することになど、いかほどの意味もないと言いたいのだ。

そもそも、身体障害に関しては、いまだ多くの大学が建物や立地によって潜在的に入学を拒否し、あるいは入学時点でどのようなサポートが必要なのかを本人自身に問う。つまりは、大学が「正常」と判断する範疇を超えている学生については、学修にともなうリスクは学生の自己責任で、主張すればそれに応じる心構えはある、という程度のものに過ぎないだろう。

それなのに、精神障害や学習障害など、本人すら自覚のない症状に、数時間の研修を受けたとて、素人同然の教職員がどのように対応できると言うのか。多動で教室で授業を受けることのできない学生のサポートなど、サポート体制を事前に用意しておかなくては、教員が個人的に対応できる範疇を超えている。まして、一体どの学生がそのような「病」を抱えているのかについては、守秘義務によって教員には知らされないのだ。

学生相談室の臨床心理士の先生方は、障害ついては紹介してくれるが、どちらかと言えば、素人が対処できるものではないことを匂わせる。しかし、研修会に参加していない教職員を闇に、障害に理解のない者・偏見を持つ者のような言い方をするので、個々人に障害への理解を踏まえた学生対応を望むような態度でもある。学生との関わり方や発言には、部署や立場によって制約があることをご存じないのか、わかった上での啓蒙活動なのかわからないが、学生相談室以外の具体的なサポートに関わる制度やシステムについては、事例紹介すらない。

たかが、90分の研修会に私が求めすぎなのだろうか。
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前の記事の続きで大学ってなんなんだという話を何度か書こうとしているのだけれど、何度書いても「当たり前」のことしか書けなくて消してしまう。

言いたいことは、

1)大学が就職のための実学指向になったとしたら、社会における大学の存在意義はなくなる。なぜなら、大学は既存の社会の「知」を超越していくことに本来の目的があるから。

2)高校までの勉強ができるかできないかは大学で学ぶことに向いているかどうかは関係ない。高校は問題を与え解く勉強をさせるところ、大学は自分で問題を見つけさせ、探求の喜びを知るチャンスを与えるところ。探求のレベルは本質的問題ではない。

3)自主的に学ばない者に何も与えないような大学教育が、就職の際の要件になるのは企業の怠慢。


だけど、今どきこういうことを言うと、60オーバーの大学教授にも「古い」と言われる。

現実的には、モラトリアムどころか漠然とした「知」への好奇心もない学生、学習障害をもつ学生が増え、彼らをほっておくことが許されない状況になりつつあるし、就職率が大学の人気を左右し、常識を疑う前に常識を教えることが大学の期待される役割となりつつある。

ただ、それらに応えることが、目の前の危機に対応するために必要なのは理解できても、その結果、大学でしか学べないことが学べなくなり、大学にしかできなかったことができなくなったりする時、それが本当に「正解」なのか、と疑問に思うのだ。
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2008年01月22日
今日、半フリーター就職活動中の友人と「学ぶ」ってなんだ?大学ってなんだ?という話をしていた。

私は今まで、企業社会で働く正社員の倫理や仕事こそが、もっとも生々しい現実、あるいは多くの人が現実と信じるべきものだと疑わない人たちをどこかで小馬鹿にしていたと思う。私は彼らのリアリティを知らないが、自分のリアリティが全体社会の真理ではないことを知っているということにおいては、彼らより「まし」なんだと思っていた。王道をまさに歩いているものには見えない側道からの風景を自分は知っているのだと思っていた。

それはたぶん、半分本当で半分はそうでも思わなければ自分の不安定な生活を正当化できないからだと思う。

だけどたぶん、「無知の知」はその「知」を知っていると思ったとき、もう無知の自負ではないのかもしれない。いや、哲学は専門外なので、小難しいことばを使うのはやぶへびか。

友人と話していて思ったのは、自分が研究者を志している云々を抜きにしても、もはや高等教育(大学教育)の必要性を否定する立場からものを考えられなくなっているということだ。

思い返せば、自分が「子ども」で「生徒」であったとき、どうして「大人」や「親」や「先生」は、昔「子ども」や「生徒」だったのに、私たち「子ども」の気持ちがわからないんだろう?と思っていた。アルバイトから社員に転身、採用された店長に対し、どうしてアルバイトスタッフの気持ちがわからないんだろうと思った。

少し大きくなって知識がついて、それは「親」や「大人」が「子ども」だったときの社会環境と今の私のそれが違うからだと結論づけた。そもそも社員に採用されるようなアルバイトスタッフの意欲・姿勢と平均的なアルバイトスタッフのそれが同じはずはないからだと結論づけた。

それにも一理あるかもしれないし、しかし人は、忘れたことにも気づかずに忘れてしまうことができるのだなと今は思う。言い返すことばや権利を持ち合わせていないために腹に溜めた憤怒を、どんなときにどんなことばで傷ついたのかとか、その不当性とか、そういう細かなことは都合よく忘れて、怒っていた・恨んでいたという事実だけを記憶して、あの頃の自分は何も知らずに大人を恨んでいたものよ、と今の自分のリアリティを上塗りし、何も忘れていないつもりで肝心のことを忘れることが人はできるものなのだと、今は思う。

高等教育(大学教育)を考えるとき、いずれ大学の外部において社会に資する役割を見出すだろう立場から大学を眺めていた自分はもう私の中にはいない。未熟で、青くて、何の知識もないながら、大学を卒業した後の自分の人生を思い描いて、あるいは思い描けなくて、そんな自分と照らし合わせながら、学校の制度や授業や教員の愚痴をこぼしたあの頃の自分は、もういない。何を忘れてしまったのかさえ、思い出せない。それを知るには、今度は学生から学ぶ他ない。

怖いのは、うっかり油断すると自分がまだ覚えていると思ってしまうことだ。自分の記憶に残っていることが経験の全部だと思ってしまうことだ。

忘れてはいけないけど、忘れないように努力したからといって、結局はそのときすでに忘れているってことを忘れてはいけない。

私はもうこっちがわの世界にいるんだということを知らなくてはいけない。

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2007年10月25日
フィッシング目的のコメントがコンスタントに入ってきていて、それを削除するのが地味に面倒なので、過去の記事に関してはコメント不可(但し、既に投稿済みのものは表示)とし、最新の記事に関しては承認制でコメント可という設定にしようと思います。

すべての記事に対して一括で設定を変更する方法がわからないので、過去記事の設定変更はチマチマとやっていくことになると思います。

承認制になると、コメントは私が確認するまで公開されませんが、確認後も公開を希望しないコメントについては、従来通りMsgからお願いいたします。


せっかく更新なので日記を…。

昨日、今日とペーパークラフトでちまちまとジャックオーランタンを作っている。フレッシュネスバーガーのサイトにあるやつ。星のシールを買ってきて貼ってみたり、マニキュアでキラキラにしてみたり。

仕事中も集中力が途切れたら気晴らしついでに作る。もともと職場のカウンターの飾りのために作っているのだから仕事中にしても問題ないと思うけれど、遊んでいるように見られたくないという気持ちが最近薄れてきたのもある。それだけ、職場になじんできたというか厚顔になってきたんだろう。だいたい、専任の人がぴーちくぱーちくおしゃべりしている傍らで(私は仕事中の私語が嫌いなのだ)、派遣の私が昼休みも削って働いているのに、それで残業していると「どうせ家に帰ったってすることないんでしょ」なんて嫌味を言われれば、バカバカしくもなるってもんじゃないか。(この場合の「すること」というのは、つまりデートとか子育てとかのこと)

いずれトラブルになることが予想されているのに、何を指摘しても「とりあえず今までどおりで」と返されることにも飽きてきた。

まるで私の人生みたいだ。

それに比べれば、ジャックオーランタン作りは楽しい。今晩はネットでニュースを見ながら、4つくらい完成した。

動画で配信されているニュースは少ないのでチャンネルを変えても大抵同じニュースを何度も見ることになる。疲れた頭にはそれぐらいがちょうどいいのだが、何度見ても本当のところは何も理解していない。たとえば、小沢さんが給油に反対するかわりに、ISAFに参加したがっている(もちろん自分が、ではない)のは今日知ったが、ISAFに参加するということが給油活動とどう違うのかは繰り返されるニュースだけではよくわからない。

ヨーロッパで移民の少女(三重のマイノリティ)が男に電車の中で突然殴られたというニュースも、「どんなにか恐ろしかったろう」と涙を流しつつ、私は何も理解していないんだろうと思う。

脳内フリーズが直らない。
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2007年10月21日
どもども。

久々にお一人様ファイターの方も更新しました。


今日は、スキャンダルというか、興味本位なこと書きます。

元事務次官が受けた接待の件で、色々ニュースが流れている件について。

このニュースを見て、ちょっと前に彼と防衛大臣だった小池さんが人事でもめてたとき、そのニュースを取り上げていた「やしきたかじんのそこまで言って委員会」(だったと思う。多分…)で宮崎さんが、どちらかと言えば守屋寄りの世論に対して小池さんを擁護するっぽく、「これには大きなスキャンダルが隠されている」みたいな発言をしていたのを思い出した。

え、なになに〜と思った瞬間CMに移って、CM明けはその話に全く触れなかったから、凄く気になってたんだけど、TV持ってないし(その時は友人の家で見ていた)、宮崎さんのコラムとかそういうの載っている雑誌も知らないし(てかそこまで思いつかなかった)、煮え切らないまま、なんとなく忘れていたのだ。

この事件自体には、小池さんが辞めるほどのことをしたのか、とか、守屋さんの人相ってどうなの、という程度の関心しかなかったし。

今になって、宮崎さんが言っていたのはこのことかーって、やっと腑に落ちた気分だ。その番組について、何か言っている記事はないかと探したけれど、あまり見つけられなかった。宮崎さんが、そのスキャンダルについて主張していたのは、周知のことだったのだろうか。私が知らないだけで、TVでは「ほら言ったでしょ〜」みたいなこと、今、宮崎さんが言ってるのかな。


よくわからないのは、なぜあのとき宮崎さんの発言はCMで潰れちゃったのか。時期尚早だったのだとしたら、今どうして・どうやって明るみに出るに至ったのか。そういうこと、どっかでとりあげてたりするんでしょうか。

本当に、小池さんなり宮崎さんなりがあの時それを知っていたのだとしたら、他にも知ってた人はたくさんいるはずで、それを知らんぷりしてた人は、なんで知らんぷりしてたんでしょうか。

テロ特措法の制定に彼が必要だから見ないふりをしていたんだとしたら、これは守屋さん、あるいは防衛庁だけの問題じゃなくて、当時の小泉内閣の問題でもあるんじゃないかなーと思うわけなんですが。

いや、守屋さんが不正していたからすなわちテロ特措法やテロ特措法によって実現する活動も否定されるべきって言いたいんじゃないよ。テロ特措法とか給油活動とかそういうのは、それ自体で是非を審議すればよいとは思ってる。でも、自衛官が利害関係のある人と懇意になることの倫理(つーかこれは規則違反だったっけ?)が問われるならば、政治家が法案通すために誰かの不正を先送りにするっていうことの倫理も問われるべきなんじゃないのかなと思う。だって、法案通った後でお前不正してたろ、もう辞めろって言ったって、そりゃ見方によっては、利用するだけして捨てたってことになるし、俺のおかげでこの法案通ったんだもんね、お上は俺に文句は言えまい的な増長が起こっても不思議じゃないじゃん。

ようするにバレないって思ってたってことなのか。でもバレた今、その尻拭いのようなことに国会の時間を割かれることはもったいないというか、早々に処罰せずにいた者の罪なんじゃないかと思ったりする。いや、不正が明るみに出ることはもちろん良いことなんですけど。

「証人喚問」とかテロ特措法・給油活動継続への見直しが、私の言っている「見なかったふりした責任とりなさいよ」って主張の一つの形なんだろうか。いやあれは、ガロンがどうのっていう法律が成立する根拠とか前提になるデータに疑わしい点があったから、法律の是非を問いなおそうってことだよね。やっぱ、よくわからん、政治。


(追記)
よく考えたら、宮崎さんが発言した番組は生放送番組ではないので、「スキャンダルがある」という発言をごまかすためにCMに移ったというわけじゃないですよね。それについて詳しく報道するつもりが番組あるは宮崎さんになかったとしても、わざと宮崎さんの発言を放映したはず。
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