2005年11月30日
■母親が還暦を迎えました。めでたい。よくぞ元気で生きてくれています。私が物心ついて以来初めてと言ってもいいと思うが、父が母にサプライズプレゼントを用意していたようで、誕生日祝いの電話をしたら、超嬉しそうな声で教えてくれた。実家に電話かけて、ラブラブなカップルがいちゃついているところに電話をかけてしまった気まずさを感じたのは初めてだ。こんな夫婦ですが、あらゆる占いにおいて相性は「よくない」。


■バイト先に来ている、英会話スクール関係のスタッフさんのトークについて。
前にやたらに「かっこいい」とか「すごい」を連呼して男性を会話に引き込む手腕を持った女性の話を日記に書いた(これです。)その時は、男性スタッフが女性に「かわいい」を連呼して会話を盛り上げることは難しそうだというようなことを書いた気がする。

 で、今日また同じようなメンツの勧誘っぽい人たちがバイト先に来ていて、今度は男性スタッフの女性客に対するトークを聞いていた。そしたら「かっこいい」に対応することばは「かわいい」ではなかった。それは、、、「でも、それってすごくステキなことだと思いますよ」でした。うげー!!て思いました?さもありなん、と思いました?

 彼の会話術はこうです。
まず、彼女の学部を聞き出す->理系と判明。
->次に、でも外見は文系だよね、と言う。そして服装がキチンとしているおしゃれなど褒める。
->これによって、理系は頭はしっかりしているが身だしなみが酷い、逆に文系は服はオシャレだが中身はからっぽである、という固定概念を確認する。その上で、両方を持ち合わせたあなたはステキだと言う。
...こんな感じ。この場合、中身と外見のギャップって彼が固定概念を確認するからこそ、浮かびあがってくることなのだけど、でも結構いるじゃないですか、「私って人からは○○って思われてるけど、実は××なんですー」という語りが好きな人。まあそれとか「みんなは○○って言うけど、私は××だと思うんですよねー」という自己主張。私も得意かもしれん。こういうのって、全部「でも、それってすごくステキなことだと思いますよ」ってオチがつけられそうじゃない?内容はともかくとして、みんなと違う意見を持っている君がステキ、ギャップがあるってことは両方のいいところを持っているということ、だからそんな君がステキ、みたいな。

すげー話術だー。やっぱ、みんな褒められたいんだよねー。「かわいい」だとちょっと馬鹿にされてる感じがしなくもないし、恋愛っぽくなってこういうトークには向かない気がするけど、「でも、それってすごくステキなことだと思いますよ」は、恋愛っぽくないし、本当は凄く上から見た物言いのような気がするが「かわいい」に比べたら幾分まし。しかも、誰にでも分かるわけじゃない君の魅力を僕は分かってるよ的なニュアンスもありぃで、結構使えるフレーズなんじゃないかと思う。いや、マジ、友だちとかに言われたら「やっぱ?やっぱ?」とか言って私なら有頂天だ。

なんか人をひっかける話術みたいに紹介してしまったけど、人の気分をよくさせることばって知っておいて損はないよね。誰かを勇気付けるときにも使えるかもしれないし。そのために、ステレオタイプを用意するってのはいただけないけどねー。
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■一個前に「突然泣きたくなる」という記事で書いたことを読み返しながら、嵐のコンサートで松潤×大野くんのきっすに悶絶し、買い物に出かければ彼氏と店員のやりとりにムフフとなるような腐女子が、今さら何をか言わんや、だなと思った。ようするにここんとこ凄く気分が落ちて自己不信で、そういうときは普段見ないふりができる自己矛盾にも目ざとく気がついて泣きたくなる、という一連の気分の落ち込みの中での一片なのであって、日ごろから男アイドル見るたびにそんなことは思ってはいない、ということは告白しておかねば、と思った。

 それで、またまた引き合いに出してすみませんが、kmizusawaさんの「『偽善者』とか」という記事を読み、「私なりの偽善ってなんだ?」みたいなことを考えてみた。私は哲学者ではないので、そもそも普遍的な善とは何かみたいなことの答えは出せませんが、私なりの「偽善」ということばに持つ感覚ということで。

 私が感じる偽善には多分2種類ある。ひとつは一貫性がないことに対する「偽善」という感覚。「言ってることとやってることが違う」とか、
たしかに私には、好き勝手思ったことを言いたいんだけど八方にいい顔したいっつー気持ちもある。そういう「都合のいいときだけいい子になりたがる」ところは「偽善」と呼ばれてもしょうがないなあ。

というkmizusawaさんの語りで表現されていること。私が高校時代に、親の金でのうのうと暮らしながら募金箱に小銭を入れる自分はなんと偽善者なことよ、とか思っていたのも、この「偽善」。

 もうひとつは、これとは逆に一貫性を装うことに対する「偽善」という感覚。私にとって社会生活を営む人間というのは矛盾した欲望を持つのが当然の姿なのであって、どちらか片方の欲望(それが正義であれ俗悪であれ)をもってこれが本来の私なのだ自己呈示するのは、「偽善」なんじゃないかと思うことがある。自分が言ったことや正しいと思った思想に縛られて、その他の欲望を切り捨てるのはおかしくないか。自分の欲望の多様性を肯定できない人間が他人の欲望を肯定できるのか。自分の中の矛盾を見つめることができない人間に、自分の背負わされた矛盾の背景にある社会の矛盾を暴くことができるのか。善であろうとすることを自分の内部のみで試みようとする人間は、そうではない人間のことを切り捨てるだけなのではないか。それは本当に彼/彼女の善と矛盾しないのか。...なんか、そういうことを考えちゃうわけです。

 だから私にとって、前者の偽善を避ければ後者の偽善になり、後者の偽善をさければ前者の偽善になり、で結局どうあらがっても私は偽善者なわけです。で、今は後者の視点に偏りがち。

 私は前のバイトで時給労働にもかかわらず、さんざん無給のサービス労働するはめになって、そこで学んだことがある。自分の幸福や権利を尊重しないと、他者の幸福や権利も尊重できないということ。これ他人に当てはまるかは知らん。でもさんざん店の為、店の為で我慢我慢を重ねていたら、お客の言うことが全部わがままに聞こえてきちゃうんですよ。私はこんなに安い給料で誠心誠意頑張ってるのに、あんたもちょっとはこっちの頑張りを考慮してよ、みたいな。でもお客さんにとってはアルバイトにいくら給料が払われてるかなんて知ったこっちゃないんです。自分は適切な金を払ってるんだから、文句を言う権利がある、と思う、そしてそれは当然。だから、私も自分の労働力に見合った権利を主張することにした。給料面だけじゃなくて、業務のやり方、効率化にも口を出す。やめたって生きていけるという強みがないとなかなかできないことだけど、そうしてから、お客さんのクレーム素直に聞けるようになった。こんなこと、就職試験で言ったら、絶対落とされるんやろうなー。

 ああ、なんだか話がそれたけど、言いたいことはこれ。
・自分の幸福を望む人が他人の幸福を望んだりサポートできるとは限らない。
・しかし、自分の幸福を追求しない人が、他者が幸福追求することを真に肯定できるとは、私には信じられない。
・で、私の「善」は個々人の幸福追求である。(もっと簡単に言うと、自分がハッピーで、その自分のハッピーが誰かのハッピーを邪魔しないようにできたらいいな、ということ。みんながそう思ってくれたらいいな、とかいう贅沢な願望もあり。)
・しかも、個人の欲望は矛盾を内包しているのが自然である、と私は思ってる。
・だから、自分の中の矛盾を見つめる(開き直りではなくて)ことが、「善」への道しるべになる。
・そのためには、「偽善者」になることを恐れてはならない。...いや、恐れたっていいか。でも「偽善者」にならないってことに固執しなくたっていいと思う。

 まあでも、なかなか自分ではそれが実践できてなかったりするのだが、例えば上記のリンク記事の、

いや正直に書いちゃうと、私が興味を持っているのは「自分」だけだと思う。我ながら気持ち悪いけど。自分を楽にすることや自己正当化にしか興味がない。(中略)

現実に生きてる私は、そこらじゅうの他人の好意に甘えまくって「許されて」生きてて、しかもときどきそのこと忘れて「当然だ」とすら考えて偉そうにしているような社会のダニに過ぎない。(中略)

だからこそ私は、他人の気持ちも考えなければとか想像力とか加害者性に自覚を持たねばとか、ことさらに言いたがるわけだが。


とか、元ネタになっている記事の、

でも四六時中そのことを考えて罪悪感に苦しみながら暮らすのは精神的に不健康だし、うっとおしいし、「私はいつも反省してます」みたいになると、どこか欺瞞臭い。ポーズではなくあまりにも突きつめて考えすぎると「この世に存在するのがそもそも間違い」みたいになって、生きていけなくなるし。(つまりやりたくない)

頭のどこかで被害者性も加害者性も自覚しながら、気をつけながら、それでも目の前のことを楽しみ、嫌なことや「おかしい」と思うことには怒り、いろいろ考え、絶望よりはちょっとでも希望を持って生きていきたいんだよな。他の人も基本的にはそうなのだろうと思ってみる。


なんていう語りに、私は、こう、やられたー!って気分になるわけです。まあこういうこと私に言われてもkmizusawaさん本人は暑苦しいだけなんでしょうけれど。筆力不足です。すみません。

 で、今さら自分の記事の内容に戻ると、私は小池徹平の笑顔で自分で見ないようにしていた自分の矛盾(一種の偽善)に気づいて自己嫌悪した。だけど、それを記事にしたときに「自己嫌悪する自分」しか書かないことで一貫性を保とうとした、というところでまた第二の偽善。私ってそういう貧困な想像力しかないのよね。でも私のいいところは、偽善となることを恐れず、あほーな日記を書き続け、あほーと気づいても晒し続けていること。自画自賛。

 
「突然泣きたくなる」に関してはトラックバック(以下、TB)をいただきました。「そうなのよぉ」とうなずきながら読みました。多分「悲しい気持ち」になる背景は違うと思うのですが、そういうときの「なんなんだ私は」みたいな感じというか、自分の欲望なのに「まきこまれてる」という感じというか、そういうところが失礼かもしれませんが同じだなーと思いました。

 うん、TBもらうのっていいものですね。記事と関係のあるTBを初めていただいたのが、この2、3日のことで、それまではずっと関係ないエロサイトのTBばかりがつき、TB=迷惑、みたいな感覚になっていました。だから自分がヨソ様のブログに関して記事を書くときもTBにためらいがあって自分ではつけたことがない。だけど、こうやって関連のある(しかもこの度は好意的にとりあげて下さった)TBをいただくと、むしろTBすることで私の誠意が表されるのでは、みたいな感覚にすらなってきた。なんて単純な。。。

注:トラックバック
リンクとは普通、リンクしたい相手のサイトアドレスを自分のサイトのページに書き込んで作るものだが、TBは相手のブログに表示されているTB専用のアドレスを利用することで、自分のブログサイトへのリンクを相手のブログサイトへ生成、表示させることができる機能。(多分)
つまり、リンク元がリンクを作るんじゃなくて、リンク先がリンクを作るってこと。(多分)
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2005年11月28日
 で、バイト。この記事ちょっと重いかも。

 本屋のバイトで売り場整理していたらWaTというアイドルの片割れ小池徹平の写真集があった。その裏表紙の笑顔を見たら、仕事中なのに突然泣きたくなった。よう分からんが自分に対する嫌悪感というか、こんなんじゃない、という感じが湧き上がってきた。

 小池徹平は悪くない。ありゃ、かわいい。あの媚び媚びに感じるポーズも本当は媚じゃないかもしれないし、媚だとしても好きでやってるかもしれない。だけど、なんだかイヤなのだ。

 女もいろいろ、だから男だっていろいろでいい。だけど、なんだかイヤなのだ。

 別にもっと男らしくしろーとか言いたいわけじゃない。むしろ、私はかわいい系の方が好きだし。だけど小池徹平を見ていると、どうしても「客体化」とか「商品化」ってことばがあたまをよぎる。

 昔、ジャニーズジュニアがグルメスポットをレポートする「裸の少年」という番組を見たときも同じことを思ったような気がする。今は知らないが私が見ていたときは、年端もいかないような少年がパジャマ姿で出演してVTRを見る。そのVTRでグルメスポットが紹介されているのだが、それ以外にも温泉に行くなどして必ず半裸をさらすシーンが挿入される。美少年の裸に「萌え」となったってそれは別に「健全」の範疇だと思うけど、問題は番組がそれを売りにしているってことで、出演者は売りが何なのか知っているから、例え本意じゃなくても脱ぐ。仕事なんて、本意じゃないことをさせられるもの、と言ってしまえばそれまでだけども、なんだかとても悲しいし、自分がイヤになって見なくなった。

 小池徹平はかわいい。もしかしたらあれが彼の自然体なのかもしれない。だけど、そんな彼の媚びっぽいかわいさをパッケージして商品にされているのを見ると、それをかわいいと思う自分がいるからこそ、嫌になる、悲しくなる。自分の欲望が、明確な対象を持たない媚な顔を彼にさせているんだと思ったら嫌になる。自意識過剰すぎかな。男の人も、美少女アイドルを見て、こんな気持ちになることあるんだろうか。

 誰にも支配されたくないという自分の欲望の影にひそんでいる、誰かを支配したいという欲望を、小池徹平の笑顔が暴き出すようで、だから私は泣きたくなる。そんなはずじゃなかったのに。私はそんなことを望んだつもりはなかったのに。
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 それでその後(一個前の記事参照)、「たかじんのそこまで言って委員会」という番組を見た。犯罪に絡めて脳の専門家が出てきた段階でチャンネル変えたかったんだけど、私のTVじゃないからしょうがない。映ってると見ちゃうし。

 でも今回のゲスト(?)良かった。親の育て方が脳に影響を与えるとか言ってたけど、それがどんな影響なのかということには注意深く触れないようにしていたし、脳(の異常)は人間がどんな行動をとるかということに関して言えば、一枚のカードに過ぎないってちゃんと言ってくれたのが良かった。ちなみにカードは9枚くらいあるらしい。

 で彼曰く、脳に「異常」がある人は、100人に1人、殺人を犯しかねない「異常」だと400人に1人だとか。つまり、この場合「異常」ということばは、「例外」とか「特殊」とかを意味しないってことになるよね。日本に127万人もいる人々を「例外」にはできないし、32万人でも自分には関係のないことと思える数字じゃない。殺人を犯しかねない脳の持ち主の問題は、自分に関係のない誰かの話じゃない。そういう脳を持ってるというだけなら、「普通」ってことじゃないだろうか。

 オチでは、その脳の専門家が自分の脳を分析したことはあるかと聞かれて「こわくてやったことがない」と答えて笑いをとっていた。何かを突き詰めるという研究において、自分の存在を外部に押しやって研究できる分野は羨ましいと少し思った。フェミニズムは(もちろんフェミだけに限らないが)常に「ならば自分は?」と問い続けることになるから。それに十分応えているかは別だけど。

 話はズレるが、自分が異常と思うことはあるか、という質問にコメンテーターたちが答えていた中で、どっかの大学教授が「セクハラ」に関する発言していた。「セクハラ」は主観的なものだから、する方は対処しようがないとか云々。こういうの聞くと、大学教授と言えども、自分の専門分野以外については恐ろしいほど愚かなのだな、と思う。専門分野以外のことについては知らないのは当然。だけど、知的エリートとしてもてはやされるがために、貧相な知識しか持ち合わせていないことについてまで、自信満々に語る姿は醜い。いいんですよ、無知でも。無知の語りの中に真実があることだってあるのだから。だけど知的エリートぶった物言いの中に見られる、謙虚さのかけらもない無知は本当に恥ずかしい。ああはなりたくない。
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本日の「妖精」語録:「背後霊って前にいたほうが心強くない?」

 今日は「妖精」が録画していた腐女子を特集したテレビ番組(番組サイトの紹介はこちらのFILE00008参照。)を見た、というか見せられた。私が腐女子だと知っていた、とは知らなかった。相変わらず、爆笑問題の太田さんはバランスのいいコメントをするなぁと思った。

 実際は「腐女子」ではなく「BL系乙女」として紹介されていたのだけど、男オタクを「アキバ系」と言うのと同様に、「BL系乙女」も池袋の乙女ロードにちなんだネーミングだそうで、どうして特定の地域と結びつけてネーミングするかなぁ。。。てか、乙女ロードを知らなかった私は、もしや腐女子名乗る資格なし??でも、やっぱこういう特定の地域と結びつけてイメージを作り上げる手法というのには違和感があるぞ。だって、見ている側に「あなたのお隣さんももしかしたらBL系乙女かもよ?」というメッセージを発信してしまわないようにする防御策のように感じてしまう。秋葉原や池袋に行かない限りは無関係、みたいな。

 しかも、あの「BL系乙女」を恋愛不適合者というか男にトラウマ持った女性として描くっつーのもどうなのよ。円満な結婚生活送りながら「BL系乙女」している人もいるし、私に初めて「やおい」の世界を紹介してくれた女の子も同人誌いっぱい持ってたけど、クラスの中じゃモテ系女子だった。確かに思春期にクラスの男子にキモがられるのって結構キツイというのは私も体験上知っているけれど、「それがこの異常な趣味の原因なのです」みたいなストーリー作りは、「BL系乙女」を異常視すると同時に、彼氏がいないことが人間性に悪影響を及ぼすという異性愛至上主義的な思考回路であることの両方から、納得できない。まぁ、私もところ構わず腐女子だと自称しているわけではないし、その点では異常とは言わないまでも褒められた趣味じゃないとは思ってるんだけど。

 結局、この番組がセンセーショナルなことというか目新しいものとして取り上げたい「BL系乙女」の特性とは、BLという空想の同性愛を好むということなのか、人間関係能力の欠如なのかよく分かんない。多分両方なんだろうけど。もちろん「BL系乙女」を「BL系乙女」たらしめてるのは前者なのだが、後者で異常性を強調しようとする番組のつくり方をしているので、わけわかんなくなっているのだと思う。太田さんはどちらかと言えば、後者に関して触れる形で「人間、誰にでもそういう時(周囲の人間関係に嫌気がさして物語の世界にはまること)はあるよ」というようなコメントしてました。

 ただ、BL趣味をそれに重なる自分の経験(太田さんの場合は読書)に言及する形ではあるが「逃げだったと思う」とコメントしていたのは、ケースバイケースだよな、と思った。21歳のニートと紹介されていた子は、イジメが原因で男の子と関わりたくないと思うようになったと言っていた(これはインタビューアーに引き出されて言ったのであって自分から言い出したわけではない)のだから、そういう言い方されれば「逃げ」と解釈されてもしかたないのかと思うが、じゃあ彼氏や夫がいる人のBL好きは何なんだ?ってことの答えにはならないから。だいたい「逃げ」と「発散」とか「癒し」ってどうやって区別するのか私には分からない。

 あと、取材で出てきた「BL系乙女」が私にとって特殊な例で自分とは全く違う人間に思えたか、というとそうでもない。ニートの女の子は、自分で自分のことしょーもないみたいに言っていたけど、あれってBL趣味のことじゃなくて本当に自分そのものについて言っていたんだと思う。親の前で同人誌を広げようがテレビに出ようが、彼女は開き直ってるわけじゃないように見えた。なんか、そういうのは凄くよく分かるような気がする。自分のことダメだと分かっているからと言って、そこから這い上がる努力ができるかどうかは別問題。這い上がれないからと言って、開き直って自己肯定できるかどうかも別問題。
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2005年11月26日
 夏前だったか、私の通ってる大学の学生が電車の中で化粧をしている云々について大学にクレームが届いて、ちょっとゼミの話題になったりしていた。何ゆえ学校にクレーム??って感じですが、他に言うところが思いつかなかったんだろうね。。。

 電車に乗っていて不愉快に感じることは私もあるが、車内マナーに関する議論であまり共感できるものに出会ったことがなかった。だが、「デジタル/シゴト/技術[スタジオポット/ポット出版]」というサイトの以下の記事はなかなか面白かった。(コメント欄のpiggy-fは私。)


記事本文から長めですが引用します。
電車、特に込み合った電車というのは、そもそもが不愉快な場所である、と。だいたい他人同士が狭い空間に閉じ込められて、逃げることもできず、運ばれている。愉快であるはずがないんですね。しかし、たとえば通勤するために、ほかに手段のあるはずもなく、仕方なく乗っている、と。

だから、そもそもが感情の暴発寸前なんです。でもそれを認めることはできない。だって、自分の意志で選び取っている行動ですからね。

そういう状況の中で、何か「見慣れないもの」があると、それに対して不快感が噴出する。潜在的に蓄積していた不快感が出口を見つけるわけです。あ、おれが不愉快なのは、こいつ(ケータイ、化粧、スルメ)のせいなんだ、と。ただそれだけなんだ、と。


結構説得力あるなぁ!と私は思いましたが皆さんはどうでしょうか。

 また別の「中央調査社」というところで2001年に行われた調査がPDFファイルで見れるのですが、それによると都会の方がマナーが気になるの比率が高いということ。(しかし回収率の高い調査だな。。。)


 もちろん都会の方が人がたくさんいるし多種多様な人間の集まりだからマナー違反も多いと考えることもできるけど、私の個人的実感では都会とは呼べないような地域でも(むしろそちらの方が)マナー違反は多いように思う。前に住んでいた山口では、上記の調査で上位に挙がっている横入りとか酔っ払いなんてザラだったし、荷物を席に置いて他の客に座らせない人もよく見た。

 そんなわけで都会の方が不快と感じる比率が高いのは、石田仮説の通り混雑そのものに不快の原因があるからではないかな、と思った。

 この調査結果を見てハッと思わされたのはもう一箇所ある。不快と感じる比率で「化粧をしている人」とほぼ同じポイントに「性的な記事・写真の載った新聞・雑誌を広げている人」が挙がっている。こういう行為をマナー違反であるとする鉄道会社の告知物は見たことがないが、不快に思っている人は結構多いみたい。

 それで、何にハッとしたかというと、個人的な感覚で言えば私は化粧もポルノも不快に感じないのだが、「化粧」を不快と感じる人に対して、私はどこかで「なら見なければいいじゃん」というような思いをぬぐい切れなかった。でも「性的な記事・写真」に関してはそういう風に思ったことがなかった。ものによってはエロい記事を読んでいるわけではなくても、そういう記事が露出してしまう形の新聞なんかもあるから、エロい写真の載ってる新聞・雑誌を読むこと自体を非難するつもりはないが、かと言ってそれを見て不快に思う人に対して「見なければ」とは思ったことはなかった。

 電車の中で化粧をするという行為に関しては、個人の道徳心とかそういうレベルで議論しても改善の余地はないと私は思っているのだが、そうではあっても、やっぱり不快と思う人の気持ちを否定していいということにはならないのに、と反省。

 また、上記にリンクを貼った記事の続きで「不愉快だからといって、それを規範にするな」という石田さんの主張もなかなか興味深い。他人様が不快=やってはいけないこと、では物事の本質を見誤るような気がする。一方で、不快であることをやめてもらうのに常に合理的な理由を必要とされるのも、また疑問が残る。

 今、頭がぼーとしているので、このネタはまたいずれの日にか、ということで。
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posted by piggy_fsite at 05:40 | Comment(2) | TrackBack(4) | 日記b_entry.gif
 誕生日にブタイラストをプレゼントして下さった方が、ダイソン・デザイン・アワードで金賞を受賞されたので紹介させていただきます。


 画像クリックで次のページに進みます。左メニューの入選発表をクリックすると作品紹介ページに進みます。

 こういうコンペの作品を見てて思うこと。私は会社勤めしたことがないので予想の範囲で物を言うのだけれど、普通会社が商品化するときに採用するアイディアというものはコストとニーズが最優先で次に美しさ・かっこよさ・かわいさなどが基準になり、ダイソンが言うところの「革新性」というのは、そのさらに後に評価される基準なんじゃないかと思う。

 だけどコンペは違う。金賞作品を見てこれが技術的に可能かとか、可能だとしてもどれくらいかかるかとか、買う人はどれぐらいいるかということを考えたら評価されるかどうかは分からない。artとしての側面(美しさ・技術の洗練)もこの作品以上のものはあると思う。だけど、人々の身近にあるモノでありながら、そのモノに関わる行為を全く違ったものにする、多少オーバーに言えばアイロンがけという概念を変革するようなパンチが、この作品にはある。それがダイソンの言うところの革新性であり、評価されたのだと思う。かなり圧倒されました。

 こういうことは分野は違えど自分の研究にも置き換えることができると思う。社会科学の研究において、理論的整合性とか実証的なデータの収集についてもある程度のレベルが必要だ。しかし多分これはデザインにおいてのartとしての側面みたいなものだろう。本当に優れた研究というのは、これまでの分析概念を超えていくような革新性を持ったもの。それがクリエイティブな研究っちゅーもんではないだろうか。こういう研究が自分にもいつかできるだろうか?

 うーむ、しかし考えてみれば、私は自分の脳内にあることを表現したいという欲求はあるのだが、既存の概念を超えることそのものに意味を見い出すような人間ではないような気がする。超える先に意味を見い出す場合は別。なんちゅーか、根が保守的なのだ。現状満足型ともいう。ミーハーだし、新機能とか言われると「おおっ」とか思うけど、フロンティア精神には欠ける。どっちかって言うと、人が開墾した土地に、合いそうな肥料を考える役とかそういうタイプの人間な気がする。能力的にじゃなくて志向的に。

私は向いてないのか、クリエイティブには。
 
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 もうすぐホームページ開設してから1年になろうとしているのだが(ちなみに親ページはここ。このページ右上のロゴからもリンクしてます。)、日記をブログに移行する前まではgoogleにもヒットしないサイトだったし、私がアドレス教えた知人しか見ていないサイトだった。

 それが最近立て続けに面識のない方からコメントをいただいて、ビックリしてしまった。やはり嬉しい。Msgからいただいたメッセージについては返事のしようがないので、この記事でお礼を言わせていただきます。その中で、前の記事が他のサイトさんで紹介していただいたことを教えていただいたり、それから文字が小さくて読みにくいことを指摘していただきました。

 文字に関しては早速直しました。文字が大きくなると今度はスクロールするのが面倒という方もいらっしゃるかしら。前はfont-sizeをptで指定していたのでブラウザの表示を変更しても小さいままだったけど、今回はブラウザの文字サイズ設定をいじれば読み手の方で文字サイズを変更できるはずです。IEとネスケとファイヤーフォックスで試してみました。

 他にも何かあったら言うて下さいまし。
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2005年11月24日
 「ラストブログ(仮)」というブログの以下の記事を読んで思ったこと。


 タイトル(題目、件名)に配慮する、ということは特別な目立ちたがり屋じゃなくてもすると思う。例えば、大学で論文のタイトルをつけるときも内容を的確に表現するとかセンスのいいとかだけじゃなく、目を引くタイトルをつけるように心がけるのは普通のことだ。だから、ブログ記事のタイトルをつけるときにどうすれば目を引くかと考えることは当然だと思う。

 そうなのだけれども、上にリンクを貼った記事の「ショッキングなタイトルにする」とか「全く知られていない事実をあたかも常識のようにいう」というような方法は少々危険なにおいがするなぁと思う。いや、これが日記ブログのタイトルならまぁいいんです。でも、「事実」を伝えるという建前のニュースサイトの記事タイトルに応用されたら?

 というか、既にされているか。紙の新聞と違ってネットニュースはクリックされてなんぼ。毎日ポストに投函されるものではないし、興味がなかったらクリックしないし、クリックしなかったら広告料が発生しないとか、とにかく目立つこと目を引くことに必死になるのもわかる。そうなったら、もう目立つという目的だけのために大げさなタイトルで人の不安を煽る記事だらけになっても全然おかしくないってことになる。

 まぁ、今のとこニュースサイトで「え?」と思ってクリックしちゃう記事なんて、読んでみたら「なーんだ」みたいなものばかりだし、これは狙ってるタイトルだな、というのは段々分かるようになるものだけど。

 それでも、注目を浴びるためには多少事実の捻じ曲げがあっても、人の不安をむやみに掻きたてるものであっても(むしろそういうタイトルを推奨する)、なんてことがネットの中で常識化するならば、やっぱり事実に忠実であることが理想であるような情報の媒体はネットに一元化してしまったらダメだな、と思った。いやネットじゃなくて週刊誌なんかでも似たようなタイトルの付け方はあるけど、どこから出ているものが信頼に足るのかということはネットよりか紙媒体の方がまだ分かりやすいと思って。これは慣れの問題なんだろうか。

 
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2005年11月22日
 恋の悩みとか。

 いわゆる恋人がいる人の恋バナについて思うことは、結局オチは2通りしかないということ。どんなに関係が上手くいっていないという話をしていても、自分の欲望(性欲のことだけではない)の処理が上手くいかないという話をしていても、結局は、
1)なんだかんだ言っても好きなんでしょ、だったらもうちょっと頑張ろう(我慢しよう)よ。
2)そんな恋人捨ててもっといい人見つけなさいよ。
のどっちかになってしまう。

 自分の恋人に対して出てくる愚痴というのは、語りとしては非常に個人的な事情が絡まっているのだけれども、結局はバックグラウンドが異なる二人の人間が親密な関係を築いていくときに必然的に生まれるものだと思う。また、異性愛関係ならば「恋人ならば○○して欲しい」or「恋人として○○してあげたい」と風に表現される愛情表現に対する期待や理想と、その現実のギャップにジェンダーが絡んだ問題だったりする。たとえば、彼氏が自分に求める恋人らしさは自分にはそぐわない「女らしさ」であるように感じるて、それに応えられない、あるいはそういう期待されること自体ムカつく、とか。

 だから、恋人同士という私的な関係の問題であっても、好きだの愛してるだのという個人の気の持ちようで乗り越えられるとは限らないし、その人にとって人間関係全体にまたがるような問題で、相手を変えればどうこうという問題ではない場合もあると思う。もちろん、ステディな恋人がいることはステキなことだろうし、そういう相手と、すれ違いがあってもコミュニケーションを通して理解を深め合って修復していくのは、豊かな人間関係なんだと思う。だけれども、「いや恋愛以外にももっと大事なことあるっしょ」とか「とりあえず別れてシングルになった方がラクだよ」とかそういう言い分がなかなか出せない/言いにくい空間が恋バナ空間にはあるような気がする。自分自身がそういう空間の作り手なのだが、こういう、恋愛の中で完結(実際はループ)する恋バナはなんだか不毛な気がする。実際的なスキルの情報交換は別。

 とは言え「別れてシングルになった方がラクだ」みたいなことをシングルな人が言うと「恋人がいないから分からないんだ」とか「強がってるんだ」とか思われかねないし、恋人持ちの人が言えばそれはそれで「自分の恋愛は安定しているからそんなこと言えるんだ」とか「自分だってズルズル付き合ってるくせに」とか「なら自分もシングルになってみろ」とかそう思われるんじゃないかとか考えたら、なかなか言えなかったりする。

 で、結局(1)か(2)のオチをつけて、現在の恋人に関わる悩みというのは、その恋人との関係修復か別の恋人との関係作りかでしか解決しないというような、そういう貧困なサジェスチョンをしてしまうことになる。

 私にとっては「妖精」と付き合い始めて実感したことだけれど、「二人」というのはそんなに楽じゃない。シングルのときは一人でいることの方が困難で、常に恋人を求める人は弱い人なんだとかちょっと思っていたりしたけど、単純に二人で長時間過ごすというだけでも凄く技能がいるというか体力使うというか、相手が何を考えているのかとか考えなきゃいけないし、放心できるわけじゃないし…。非モテに関する議論に見られるような誰かに愛されるテクニックというのとはまた別の、親しい人間関係だからこそ、それを持続させるためのまた別の能力(私にとっては家族と仲良くする能力に似てる)が必要でこれはかなり高度な能力なんじゃないかなと思う。

 こういう能力が備わっている人にとっては「一人は耐えられない」というように二人関係(対関係)の方に居心地の良さを感じるのだろうけれども、関係の持続能力みたいなものが備わっていない人間にとっては、好きだから「相手を傷つけたくない、別れる理由はない」とは思いつつ、シングルになった方が実はよっぽどラクになれるんじゃないかと思う(社会からのプレッシャーについてはシングルの方がキツイのは言うまでもない)。

 だけどこの本来シングルな方がラクに生きていけるタイプの人間すら、一旦恋バナのロジック(?)にはまってしまうと今の好ましくない状況からの脱出のためには、よりよいパートナーシップを求めるしかないと思わされてしまうのではないかと思う。「思わされて」と言っても別に恋人がいないことを寂しく思う人の気持ちを偽物だと言いたい訳ではないが。寂しいと思うことは、恋人がいてもいなくてもあるし、だけどそれを何で満たされるのが自分にとって最良なのかという答えは、もう少し色んな可能性を考えてみてもいいんじゃないかと自分に言い聞かせてみたりする。

 ようするに相思相愛であったとしても、それとは違う次元で恋愛には向き不向きがあるって思う。そして恋愛向きの人の方が恋愛向きでない人よりも偉いとか上とかそういう話になるのはイヤなのだけれど、恋愛向きでない人の方が、自立した人間とか個の確立した人間とか解放された人間像だとか、そういうふうに持ち上げられるのでもなく、友だちに支えられたり思想に支えられたり、自分の支え方が違う人というかそういうふうに思われる社会になればいいと思う。そんで、自分が大切だと思う誰か(友だちとか)に対して恋人とかパートナーという形にとらわれない、そういう支え(の一部)になれる人間になりたい。
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本日の「妖精」語録:「at day!」(あとで、の意。)

■私の部屋は6階なのだが外の音がよく聞こえる。まるで窓のすぐ外から聞こえるみたいに。今、夜で静かだから余計かな。シャベルで地面を掘る音。まるで私の墓穴を掘る音のようだ。


■この前oasisのライブに行ってきた。そのレポートをブログに書けと「妖精」に急かされていたのだが演目もおぼえていないような俄(にわか)ファンの私に何を書けというのか…。英語分かんないからMCも分かんないし。俄ファンと言っても、私にとってoasisはビートルズの次に知ったロックアーティストだから思い入れのあるバンドの部類に入る。ただ音楽そのものに対する関心が低いので、oasisに対する造詣も必然浅くなる。

 ライブの会場は嵐のコンサートでいつもお世話になっている場所で、男性の聴衆がひしめいているというだけでなかなか新鮮に感じた。男性客は割りと年齢幅が広かったけれど女性客は私より年上を見つけるのは難しいくらいだった。こういうの「おとこ子ども」の文化とか言ったりするんだろうか?

 ボーカルのリアムはステージをボイコットしたりすることで有名ならしいが、今回は初めから最後まで真面目に歌いきっていた。志村けんがお婆ちゃん役するときみたいな、あのいつもの姿勢でマイクの前に立ったときは、やはり感動しました。あの姿勢でどうして声がでるのかねぇ。出ると言っても美声ではないけどさ。

 会場のノリはやっぱりアルバムMorning Gloryからの選曲が一番良かったと思う。Morning Glory、Wonderwall、Don't look back in Anger(多分)など。特にアンコールの2曲目か3曲(これが多分Don't look back in Angerだったと思う)はスタンド席も手をあげてみんなで歌ったって感じで気持ちよかった。

 てゆうか、嵐のコンサートなら私はスタンドだろうが立ち見だろうがしょっぱなから歌ってますが、やっぱoasisのコンサートではそうはいかなかった。スタンド席の観客は立っても普通に見てるだけって感じで、それって楽しいの?と思いつつ、自分だけノリノリにはなれず。もちろん、そんなことは気にせずに野太い声で「リアムー」って叫んでるお客さんはたくさんいましたが。

 それと個人的にはステージの背景も好きだった。前にレディオヘッドのライブに行ったときは、全席アリーナのブロック指定だから後ろのブロックに当たった私はステージが全く見えず、そういう観客のために用意されただろうステージ背後のスクリーンばかりを眺めていた。正直言って全然つまんなかったし、例えステージが見えたとしてもスクリーンをはったステージはあまり好きじゃない。

 今回のライブのステージ背景は紫がかった赤のカーテン(?)に電球(もしくは光を反射する玉のようなもの)が等間隔に付けられた紐がすだれのようにかかっていて、なんというか古典的なステージ背景だった。こういうあんまり凝ってない感じのもののほうがアーティストのパフォーマンス(歌含めて)に集中できるから好きだ。

 というわけでしばらく私のBGMはoasisです。でも、私に洋楽関連のことを語らせるような無理難題はもう言わないでね、「妖精」さん。
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2005年11月21日
「NWatch ver.4」というブログでの以下の記事から思ったこと。


 抑圧状況に置かれている人々が犯罪行為に及んだとき、それを権力のアンバランスから説明しようとすることは、返って同じ属性の人々に対する偏見差別を助長するのではないか、というような批判をした記事に対して、rir6さんがソーシャルブックマークで「怖い」とコメントをつけた。それに対して元の記事のantiECOさんが「怖い、ですか?」という内容の記事を書き、その記事に対して、正しいのは分かるけれども、暴動を起こした側に近い者を感じる自分は怖いと感じた、rir6さんが改めて書いたのが上記のリンク先の記事。

 たまにドラマ内ニュースなんかで、「犯罪者(少年犯罪が多い)も社会の被害者なのです」みたいなコメントをキャスターがして、それに対して主人公とかニュースを見ている者が、「犯罪の被害者と加害者を同じ被害者という言葉でくくるな!」とかそういうまともな台詞を感情たっぷりに吐く、というシーンを見かける。そんなシーンで私が「ケッ」とか思っていたら、横で見ていた人が「本当にそうだよね」とドラマの台詞に納得していたから、正直びびって記憶に残った。

 なんで私がケッて思ったかというと、ニュースで犯罪を社会的要因から説明しようとするコメンテーターは確かにいるけれども、それは犯罪を社会問題として捉えようとする視点なのであって犯罪者を免罪しようとする意図なんてないし、私の知る限りでは「加害者も被害者だ」なんていう比喩表現は相当の注意を払って犯罪そのものの被害者と同じレベルの被害者ではないことが強調されているものである。にも関わらず、犯罪を社会的要因から説明しようとするような言説を歪めてドラマの中で再現し、それを否定するような演出方法は、犯罪者の異常性を強調するためのもの。演出としては有りなのかもしれないけれど、現実はドラマと違って犯人が捕まればめでたしめでたしなわけじゃない。犯罪が残した社会問題は続いていく。だから「ケッ」なわけだ。

 それをドラマの台詞をそのまま受け入れて、犯罪の背景を議論することは被害者に対する冒涜なのである、なんてことを真正直に信じる視聴者がいるのかと思ったら怖くなった。

 さっき挙げた記事を読んで、rir6さんは、犯罪という問題に対して、社会の構造的要因に触れることなく全ての矛盾を犯罪を犯した本人に帰して解決するような考え方に「怖さ」を感じたのではないかと私は思った。

 だけども一方で、antiECOさんがフランス在住の日本人であるが故に、社会的抑圧から説明したとしたら同じような境遇にあるが為に犯罪を犯しても無理なからん人々として扱われかねない立場にある、あるいはそのような人々と近しい関係にあるということを考えたときに、私には問題が複雑になってよく分からなくなってくる。つまり、社会的要因から犯罪を説明しようとする人々は、要因として説明した経験を持つ人々は同じように犯罪者になる可能性が高い、と言いたい訳ではないのだが、結果的には犯罪者予備軍として扱われかねない危険と隣り合わせにあると言える。そういう人々が犯罪者を切り捨てようとするのは、切り捨てなければ引きずられるからだ。

 ここで正論を言うならば、antiECOさんのような立場から「私たち皆が反社会的行為に走るわけではない。あれは彼らの人間的未熟さなのだ。だから私たち全員を差別するようなことはしないでくれ。」というようなことを主張するのではなくて、「彼ら犯罪者たちが抱えていた抑圧状況に今の私たちもある。しかし、私たちはほとんどは自分たちに都合の悪いルールさえ遵守して生活している。このルールの見直しを今こそすべきである。」と言って欲しい。言って欲しいが自分がその立場ならできるだろうか。。。。

 フランスからさらに身近な日本に話は飛んで、タリウムを使用した母親殺害未遂の容疑がかけられている少女の話。こないだ研究会の前にメンバーと話しているときにもちょっとこの話が出た。私には少女が異常であることの例として挙げられていることにちっとも異常性を感じない。研究会の友だちの一人は、同じように世間を騒がした事件でも「宮崎勤の事件のときは"俺も宮崎勤になったかもしれない"という人々が出たのに、どうしてサカキバラにしろタリウムの今回の少女にしろ、彼らが異常だという話しか出ないのか」と言っていた。

 私は安易かもしれないが「それは子どもだからじゃないかな」と答えたのだが、それは生活の中の様々な人間関係の中で弱い立場に立たされ易い人々だからこそ、犯罪者に共感を示すことによって新たなレッテルが貼られ、さらに弱い立場に置かれることを恐れるのじゃないかと思う。いじめだってそうじゃん。いじめられっこに同情したら今度は自分がターゲット。そうやって、いじめるつもりなんかなくたって加害者に加担していく。

 聞きなれない犯罪が起こると、やたらに個人の異常性から語りたがる風潮の要因の一つは、
自分をマジョリティだと意識できるそういう層が少なくなったとかそういうことはないだろうか。…やはり安易かな。
 
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 友だちとの会話の中で思ったこと。

 昨日は友だちの自宅で夕飯をご馳走になった。そのときに料理が上手->いいお母さんになれる、的な会話になって、私が「フェミ的発言していいですかぁ!」と手を上げて「なんで料理が上手だといいお母さんなの?」と横槍を入れた。反応は「いやいや、やっぱりご飯って大事ですよ」というものから始まって、友だちの中の一人が自分の付き合ってきた恋人の母親は料理を作らない人で、しかも彼と母親の関係が好ましくない状態である例を挙げた。そこまで言われても、私が納得せず「でもさ〜」と言いかけたところで、「○○(私のこと)は違うから分からないんだよ」と言われてしまった。違うというのは、私はちゃんとご飯を作ってくれるお母さんに育てられたのだから、という意味。結局、そのネタは私が黙って終了。

 「経験がない者には分からない」という意味のことを言われて私が黙ってしまったのは、私の母が料理を作る人だったというのもあるのだけれど、それは私にそう言った友だちも同じなので議論の余地がないわけではなかった。でも、「違うから分からない」ということばを彼女が放ったのは私に対してだけじゃなくて、彼女自身に対して向けてきたことばなのだということを、彼女と恋人の関係についてのそれまでの語りからなんとなく感じたから、それ以上のつっこみはできなかった。多分彼女は恋人の理解を拒むような態度に繰り返し接してきて、その度に「自分には経験がないから分からない」悩みを抱えた彼をそのまま受容しようとしてきたのだと思う。文章に書くと軽薄になってしまうかもしれないが、それは彼女の愛の物語なのであって、そういう長年の彼女の痛みを内包したことばを、それが是であれ否であれ何ら自分のアイデンティティに影響しないような私が、同じ水準で議論していいのかということに疑問を持ってしまったのだ。

 それを今さらブログで続きをするのも変な話なのだが、まぁ続けます。

 言い訳がましいけれども、私が「料理がうまい/をつくる」=「いい母親」に対して疑問を呈したのは、母親に料理を作ってもらうことが子どもに与える影響の全てを否定したかったわけではない。

 例えば、携帯電話会社のauが、子どもや高齢者向けの携帯電話のアピールの為に、「お母さんの安心が家族の安全の基準」とかなんとかそんな意味のキャッチフレーズの載った車内広告を出していたが、子どもにとって自分を一番気にかけてくれるはずの存在として母親を認知させるような社会において、母親の無関心が子どもにとって大きな傷になるのは、よく分かる。そして"料理こそ母親の愛情の結晶"みたいな言説がまかり通っていれば、料理をするかどうかが母子関係に与える影響は否定できないし、だから、現実に母親が自分に対して無関心であるとかその象徴としてご飯を作ってくれなかったことを傷として背負う人の気持ちを否定する気はさらさらないのである。

 もちろん「母=自分を一番に気にかけてくれる存在」とか「料理=母の愛」という式が無くたとしても、母が自分を気にかけるかどうか、ご飯を作ってくれるかどうかということは、母子関係に影響するだろうし、子どもの成長にも影響すると思う。だけれども、母子関係以外の人間関係よりも、料理以外の育児や生活に関わる他の活動よりも有意な違いをもたらすのだとして、しばしば言及されるのは、やっぱり上記の式があるからこそなんじゃないかと思う。痛みの肯定の為に「料理=母の愛/母として能力」を肯定してしまったら、同じ痛みを持った人間を焼きなおすことになるんじゃないか、それが私の言いたいことでした。

 でも、結局あの場で私が言ったことは料理という行為に含まれる子どもにとっての意味を否定したこととかわりなかったし、そんなことしか伝えなかったならば、「フェミニストの言うことは正しいかもしれないが生身の人間の気持ちを見落としている」というような批判に全く当てはまるような言動をしたということ。ああ、こうやって私も自分にとって好ましくないフェミニストイメージを強化していくのだな、と少し嫌になった。

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2005年11月19日
■その1 学園のアイドル
 全校女子の過半数が憧れていて、通り過ぎるだけで黄色い悲鳴があがる場合もある。主人公は彼のファンではないが、どちらにしろ彼と恋に落ちる。

 類似パターンとして、ずば抜けた運動神経で複数の部活に大会のときだけ助っ人として参加する男の子もいる。学園のアイドルと兼ねる場合もあるが、どちらかと言えば男友達が多いのも特徴。

 さらに別の類似パターンとしては、不良もしくは授業中はいつも熟睡なのに期末テストの点数は上位3位内をいつもキープしている男の子がいる。決して家ではガリ勉というオチはない。

■その2 状況に応じて身体が変化する男の子
 少女マンガの男の子は大抵華奢であるが、バスケットボールの時は上腕二頭筋、サッカーのときは大腿筋を自由に発達させることができる。

 もっとも一番多く見かけるのは、女の子を後ろから抱きしめるときだけ肩幅がでかくなる、キスシーンのみ身長が伸びる男の子である。

■その3 長髪メガネのイケメン
 学校なら生徒会などに所属。階級社会では貴族、軍ならエリート士官であることが多い。他のキャラクターより長身であることが多い。

 どちらかと言えば頭脳派で、その髪型にもかかわらず先生や上司など目上の者からの信頼に厚いが、裏ではちょっとした不良行為を働いている場合もある。

 長髪メガネのイケメンは現実世界で見たことがないだけじゃなく、世のイケメンが長髪メガネにしたところを想像しても、イケメン度を確保できる姿は浮かばない。

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2005年11月16日
 最近、卒業みたいなものが近づいてきて、このまま研究生活を続けられないかもしれないということを具体的に考えはじめたら、フェミニストであることについてこれまでと違う考え方になってきた。これまで義務までいかなくても「ねばならない」的に考えていたことを、そんなの背負う必要ないじゃんと考えはじめた。

 ネットで他のサイトを見ていると文字で目に入ってくるから、直接的なコミュニケーションの場よりも意識してしまうのだと思うけれども、ネットで散歩中にフェミニストに対しての言動が気になることが多い。例えば、「フェミニストは何故○○の問題に沈黙しているのか」とか「フェミニストは本来○○であるべきだ」とか「○○に関してはフェミニストからアクションを起こさなければならない」とか、「この発言からフェミニストの実態が知れようというものである」とか。

 最後のやつはバッシング派的な言い方かもしれないが、それ以外にはフェミニスト自身が言う場合もあるし、自分でフェミニストと自覚していないだけのフェミニズムに親和的な人が言う場合もある。フェミニストが言うときは自分の理想について語っているのだろうけれども、それ以外の場合は「自分はフェミニストではないけれども」という前提でフェミニストのあるべき姿について語っていると言える。

 確かにジェンダーに関わることで非常に抑圧的な状況におかれている人が発する「何でフェミニストなのに私の苦しみが分からないの」という悲痛な叫びにフェミニストは弱い。自分の思慮の範囲を超えた問題を目の当たりにすると、自分の無力さを感じたりする。ああ、私ってまだまだだわ、と。

 でも普通に考えて、一人の人間がジェンダーの絡む問題の全てに常に向き合い続けるというのは不可能だと思う。そして、フェミニストは本当にそういう不可能な理想を義務とか責任として抱え込むべき存在なのだろうか??

 自分が研究の道から離れたところでもフェミニストであり続けることを考えたとき、すごく当たり前のことに気づいたのだけど「フェミニスト」は職業の名前じゃない。大学教員のフェミニストもいるし、政治家のフェミニストもいるけど、それがフェミニストの条件ではない。

 マヨネーズ好きな人がマヨラーなのと同じように、フェミニズムの知を肯定的に評価し、生きることに役立てようとする人はみんなフェミニストじゃないのか?だとしたら、フェミニストであることでそれ以外の人と比べて何の特権を得ているわけでも権威を持っているわけでもないのに、どうして私が何を理想とすべきかということについて他者からとやかく言われなければならないんだろうか。何を問題と思い、どういう視点でものを考え、どのような活動に従事しなければならないか、ということに責任や義務を感じなければならないんだろうか。

 フェミニストということで特権を得ているわけではない私も、今は他の人よりも学問知を手にしやすいという学生の特権は持っているわけで、その点で院生であると名乗るからには、そのことが他者に権威的に映る場合もあるということを考えなくてはならない、とは思っている。だけど、学生を辞めたら?それでも私はフェミニストと名乗る限り、世間が期待する「フェミニスト」の課題に真摯に向き合わねばならないのだろうか。

 しかも、フェミニストに関してまた別の以下のような言説もある。
私はフェミニストじゃない ってことだけ言っておきたい
フェミニズムを学ぶ学生であったとしてもね
フェミニストになっちゃったら、見えてたものも見えなくなっちゃいそうだから

引用元(http://web.sfc.keio.ac.jp/~aico/fem.html

フェミニズムに共感をしめした後に彼女(彼)は上記のように言うのだ。これを読んだとき腹は立ったのだけど、なんとなく気持ちは分かる。フェミニストに関するイメージに翻弄されてピギフェミを名乗っている私だって五十歩百歩だし。

 私の感覚で言えば、上の文章を書いた人は十分フェミニストだと思うのだが、そういう人がフェミニストだって名乗った途端に、目の前のマウスが突然見えなくなるなんてことは有り得ない。特定の経験や知識によって、それまでと違ったものの見方や感じ方になって、その経験や知識がなかったときの感覚には戻れなくなるということはあるかもしれないが、それはフェミニスト的経験に限ったことではないと思う。それでも、フェミニストはなんだか偏ったことしか言っていないように見えるのは何故か?

 無論この問いの答えを中立的な立場で出すつもりはないので、私見を述べるけれども、答えは「だってフェミニストはこう考えるべきってみんなが言うんだもーん」てなもんです。これこれの考え方や態度はフェミニストらしからぬと言っておいて、フェミニストの言動が画一的だとかいうのっておかしくないか?てか、そもそも自分のステレオタイプにのっとったフェミニストしか「フェミニスト」として感知していないから偏って見えるんだろうがよ、とも思う。

 フェミニストならばこの問題を論じよとかこれこれの問題に沈黙するなって言う人は、自分がフェミニストだと名乗ってその問題を論じればいいじゃないか。フェミニストには人の承認も資格試験も必要じゃないんだから。だいたい、ジェンダーの問題が絡むしろそうでないにしろ、抑圧状況にある人間の問題とか、人を抑圧しかねない文化についてだとか、そういうことに対応するのに、対応すべき人が決まってるっておかしかないか?

 私だってフェミニズムに知り合ってから敏感になった問題とかあるし、それは私の脳内では「フェミニズムに触れれば当然敏感にならざるをえないだろう」というような感覚を持っているのだけれども、だからと言ってそれをフェミニストならば当然これこれの問題に敏感であるべきだなどと言ったら、フェミニズムに関する間口を狭めるだけだし、そもそもその問題を社会全体が対応すべき問題として扱っていないことになったりしないだろうか?

 少なくとも"国民"の人権は憲法で保障されているのだから、それに対応すべきは国家権力の責務であって、それを個人に還元するのならば、国家を支える国民全員が対応するべき責務があるはず。なのに、フェミニストと自称して問題関心の意思表示をした者にのみその責任を負わせるのは筋違いじゃないの??

 ホワイトバンド付けいているからって、貧困問題について広い知識を要求されたりしないじゃん。マヨラーだと言ったからといってマヨネーズの作り方を知らなければならないなんて言われないじゃん。味覚音痴の嫌疑はかけられるだろうけどさ。。。

 もういっそのことフェミニストはやめて、フェミラーと名乗ろうかしら。
 
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 本日の「妖精」語録:「郵便局はあなたの心の中にあります」(「このへんに郵便局ない?」と聞かれたときの返事。)

 嵐のNEWシングル発売☆今回はたまたま月曜に友だちの家でご飯を食べていてHEY×3も見ることができました。なんか関ジャニ∞以外の話は、オナラ臭そうなのは誰とかケチそうなのは誰とか、ええーみたいな内容でしたが。。。まあ、久々に姿を拝めたのでよしとしよう。

 曲もフリツケもアイドルっぽいかわいい感じでした。「君を守りたい」みたいなこと素面で言って男が現実にいたら鳥肌だと思うのだけど、それでも恋してるぜーみたいな男の子の歌っていうのはなんだかええもんです。これ前も言ったかなー。男の豊かな愛情表現に対する矛盾した気持ちです。
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2005年11月09日
 またヨソ様のブログがネタをパクって参りました〜。この度はchidarinnさんの「嗚呼女子大生活」から以下の記事を。


 フェミが「女装」と言う意味は?という問いかけ。コメント欄で訪問者と対話されている内容も興味深いのですが、今日の日記では、そこに書かれていることとは関係なく、自分にとっての「女装」ということばの意味を書いてみようと思う。私も「女装」ってことばよく使うしね。

 思うにフェミニストを自称する者が、化粧したりスカートはいたりしたときに「女装」したって言うことの問題点は以下のようなことじゃないかと思う。

1)化粧とかスカートはくとかそういう「女装」の内容を、女的な行為であると追認したことになる、かもしれない。

2)「女装」していないときの自分を、女でも男でもない人間として想定してしまう、かもしれない。そしてその男でも女でもない人間が、スカートや化粧のように、その他の女的なものも自分の意思で着脱可能なものとして考えているかのように見える、かもしれない。(でも、たとえば男女入り混じった席で思わずお茶の準備に動いてしまう、そういうお茶汲み女精神は簡単に捨て去れないから苦しかったりする。)

3)化粧やスカートをそれが"装い"であるということを強調して、化粧やスカートをはくことを自分の自然体として受け入れている人々に対しても、それが"装い"つまりは偽りの姿であるという考えを持てと押し付けてしまう、かもしれない。

4)そして「化粧やスカートをはくことに何の疑問も持たない女たちとは違って、私は高尚な問題意識をもっているが、今日はお遊びとしてテメエラと同じ格好してやってんだ」みたいな考えを持っていると解釈される、かもしれない。

 ああ、自分で列挙していて怖なった。。。しかし、なんで私は「女装」ということばを使うんだろうね。思えば、前の学校はGパン・ジャージが当たり前の学校で、化粧もノーメイクかナチュラルメイクが大勢だったんだよね。女の子のスタイルとしてもそれが普通っていうか。実習が多い学科だったから「女」的かどうかというよりもカジュアル重視で、ジャケットとか着ていった日には出会う人みんなに「今日は何の日?」と聞かれるくらい(多少誇張表現あり)。

 そんなわけで、巻き毛の茶髪で、目の周りが黒いメイクで、ラメとか入った網タイツはいてて、シャツの襟とか立ててて、なんかようわからん小さいバックを持った女の人がしゃなりしゃなりと街中を闊歩している今の土地に来たときは、本当にびびったわけです。そういう人がいるってことは知識としてはもっていたわけだけど、それがフツーみたいな空間に居合わせたのは初体験だったからさ。

 そういう街で私がスカートはこうがファンデ塗ろうが、全くもって何でもないことなのはわかっているんだけど、それでもやっぱ勇気がいるんだよね。スカートはいたり化粧したりすることに。自分にとっては非日常で「仮装」しているような気持ちだから。しかし「仮装」と「女装」の違いは、「女装」は、自分としては非日常的でとっぴな格好と考えていても、世間的には別に普通、むしろ社会に溶け込む格好と思われているってこと。

 だから私にとっては「女装」自体、気分転換みたいなもんだし、「女装」以外にも「今日はなんたら風」とか言うし。「女装」を強いて言い換えるなら「自己内仮装」?パンツスタイルでノーメイクの自分が性別フリーだとか中性的だとか思ってないし、つーか私は女だし、「女」だ。

 ついでに言うと、アイメイクばっちりの女の子が自分より女度高いとも思ってないし、でもそういう女の子の方が「女らしい」格好だという常識が私の住む街や通っている学校にはあるような気がする。そんで、その基準でいくと自分の女度は低くって、それはマイナスの評価で、女度以外の価値基準でもあんまり高得点をとってない自分がさらに女度も低いって、いいとこなしじゃん的な自己嫌悪に陥ったりもする。

 だからって、毎日、化粧とクレンジングのルーティンワークをする気にもなれないのだが、化粧している人のその努力(本人は努力とも思ってないかもしれないが)を媚(こび)とは思ってないし、まぁ媚だから何なのみたいな気持ちもあるけど、化粧しているから媚とか化粧していないから自信があるんだとか、そういうふうに深読みされて性格とかと結び付けられること自体がイヤみたいな。

 ここまで書いてみると私の「女装」発言は、イケテナイ女が頑張っちゃいましたよ的な自虐発言で、他人様の化粧やスカートはく行為なんてあんまり思考の範疇にないと思う。そういえば昔、イヤリングをしてみたいといったら「あんたがやったらオカマに見えるからやめときな」と言われたことがある。どっかで、どんなに頑張っても一人前の「女」にはなれないという意識があるのかもしれない。でも、私、フェミニストですから。私をフェミニストと知っている人が私の「女装」発言聞いたら、やっぱ女らしい格好とか馬鹿にしているって思うだろうなとか反省。だいたい「一人前の『女』」って何よ?って開き直らないでフェミニスト自称してる私ってなんなんだ。

 実際、「女装」発言に限らず、私はよく「ギャルになりたい」とか言うんですけど、ま、本当になってみたいんですけど、これも差別的発言かなと思う。なりたいと言いつつ、そのコストは払いたくないから未だになれてないわけで、ギャルになるために必要とされるものをコストと考えてしまうあたりですでにギャルとは価値観を異にしている私が、"ちょっと"ギャルになってみたいなんてことを言うのは、随分失礼な話なのだと思う。しかも「憧れてる」みたいな言い方だから始末が悪い。就職したての人で経済的にも能力的にも豊かな人が、院に進学した人に向かって「学生っていいよねえ」とかい言うのと変わらん気がする。そんなに羨ましいならなれよ、みたいな。でも会社人が学生の自由さに憧れる気持ちが本物なように、私がギャルの強さに憧れる気持ちも本物なの。ただ、学生の自由さもギャルの強さも幻想かもしれないが。
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2005年11月06日
本日の「妖精」語録:「お尻がしゃべった」(おならをした後の言い訳の言葉)

■書いては後悔、後悔してはまた書くブログ。一個前の日記読んでいたら、結局誰かに同情してもらいたいのねって感じがアリアリで本当に嫌んなった。恵まれているクセに努力しない人間が何を言っても人の心は打ちません。でも自己憐憫に浸って転げ落ちてく甘ったるさが今の私の全てなのよね、だからやはり削除はしません。

■気になった記事(1)寛仁親王の女性天皇に疑問を呈する発言について
 天皇が女性になるかならんかということが、庶民の生活にどう影響するのか皆目見当がつかないので反対も賛成もしませんが、寛仁親王が「男系」を持続させるための方策として取り上げた4つの項目の内、読売のニュースなど一部で「側室」制度の再開だけ削られているのは何故なんですかね。明治天皇も大正天皇も「側室」の子ども。天皇の子ども、しかも男子を次の天皇にするということに厳密にこだわるならば、「側室」は必要不可欠なんじゃないかしら。

 それにしても、親王が明治・大正天皇が「側室」の子であることに言及するということは、皇族の中では正妻の子ではないということに対して偏見がないということなのかしら。よく漫画なんかでありがちな、正妻の子ではない子どもが「妾腹」として蔑まれる構図というのは、結構新しいものだったりするのかしら?

 側室と言えば、この前友だちの家で時代劇ドラマみたいのを見ていたとき、ドラマの中で色んな側室に手をつける将軍がキライだと友だちが言うので、殿様は子孫を残さねばならぬ義務があるので仕方がないじゃんと私が言ったら、「あんたがそれを言うな」とツッコまれた。

 確かに浮気性の男と付き合っている女の子には、別れろとか、私言いますけど。やっぱ、私が自称フェミニストだからなんですかね、こういうツッコミされるの。

 正直私は、男嫌いじゃないし、女をとっかえひっかえする男に恨みもないし、付き合う相手をコロコロ変えたり、一度に複数人と付き合うことも別に嫌悪してない。ただ、相手が自分に惚れていることを利用して、浮気を堂々と告白した上でそれを承認させるようなマネは誠意に欠けると思う。だから、「自分も浮気して楽しもう」と思えるのでなければ、別れた方がいいんじゃない?って話になるわけだ。それにやっぱ私の友人を傷つけるような男は嫌なやつに見えてくるから、浮気されて悩んでる友人を見ていると、浮気を我慢してまで付き合う価値はないんでないの、と言いたくなるのだ。でも、浮気や二股自体を嫌悪しているわけではないので、逆に自分の女友だちがそういう行為をしていても、それをやめろとかは言わない。でも万が一、その女友だちの彼氏に相談されたら、彼が悩んでいる限りやっぱり「別れちゃいナ」と言うと思う。

 ようするに女の味方とかモノガミー主義とかではなく、自分にとって楽しい恋愛じゃなきゃ意味無いじゃんと思ってるだけだったりする。

 ドラマに出てくる江戸時代の大奥の女たちも大変だなと思うけど、あれは恋愛じゃないし、大奥は子作りのためにあるわけだし、将軍は種馬なんだし、色んな女に手をつけるのがある意味仕事なんだし、殿様自身としてはしょうがないじゃんと思う。だから、女は我慢しろとかそういう意味ではないよ。

 そう考えてみると現代の皇室に「側室」制度を復活させたとしても、ロマンチックラブイデオロギーに染められた皇族はやっぱり辛かろうなぁと思う。愛する唯一人の相手と一生添い遂げたい、みたいなこと思っていても無理なわけですから。てか、誰が「側室」になるんですかね。やっぱ時代錯誤か。てことはそれに支えられなければ存続できない価値も時代錯誤ってことじゃないですかね。


■気になった記事(2)坂本冬美のコンサートに関するデイリースポーツの記事

 坂本冬美のコンサートでレイザーラモン住谷の相方レイザーラモン出渕が赤フンで踊りまくったってことを伝えるニュースで何故か「セクハラ」の四文字が。いいかげんにしろ、こういう「セクハラ」という言葉の使い方がセクハラを矮小化するんだ。

 セクシャルなことが全てハラスメントでもないし、セクシャルで不快を感じることがセクハラの定義でもない。もしそうなら、セクハラはマナーや思いやりの問題で片付くわけで。不快でもイヤと言えないような権力関係の中で起こるからセクハラは繊細にならねばならぬ問題なのだ。だいたい坂本冬美、嫌がってんのかい。

 別にことばの使い方が間違ってるとか言うだけなら、目くじら立てるほどのことではないかもしれない。けれど、恐らく双方了承済みでやってるネタを第三者が「セクハラ」扱いして、「セクハラ」だと言われた出渕はそれもネタにできるだろうけど、そうなると「んなこと言ったって坂本冬美も嫌がってない」という至極当たり前のことを反論として言うことで笑いをとることも有得るわけで、結果「嫌よ嫌よも好きのうち」みたいなことがまたまた再生産されるきっかけにもなりかねない。そもそも誰も「嫌よ嫌よ」と言ってないことまで「セクハラ」と茶化すことで、深刻なセクハラまで茶化される風潮を作らないで欲しい。

 いや、茶化すってことに、真面目に反論することを妨げる効果があると考えたら、むしろこのニュースが「セクハラ」なんではとか思う。
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