2005年12月31日
 前に女性やジェンダーの問題を取り上げるときに「フェミニズム的」問題関心を装うことについて書いた(ここ)。その記事では、研究目的は何であってもジェンダーについて取りあげることがフェミニズム的な文脈に回収されずに解釈・評価されるようになるべき、と書いたように思う。

 それとは反対のことを書くようではあるが、とは言え、「フェミニストの恐いオバサンたちの攻撃を防ぐ為に書いてみました」的なジェンダーの項目を見ると、「なら書くなよ」と思ってしまう。それとか性別の単純な言い換えとしてジェンダーということばを使っていたり。ジェンダーということばの性差が社会的に構築されたという視点は無視され、いや無視されるどころか、女ってのはこういもの、男ってのはこういうもの、という観念をむしろ強化するような内容だったりすると、おいおいおいって気分になるし。

 私が性やジェンダーの問題を取り扱うときの研究目的の自由度がもっとあっていいんじゃないかと考えたのは、フェミニズムがもっと学際的になればいいのにという思いからのことで、性やジェンダーの問題がどんな風に取り上げられても、フェミニストとして私はOKだ、という話じゃない。

 性やジェンダーについて研究するものに対して、問題意識をどのように持つかについてフェミニストが強要するのは違うと思うのだけれども、そもそも研究対象となる「女」や「女らしさ」が自明のものではないという見地に立っているフェミニストから見れば、実証的なデータも理論的な整理もないままに、憶測だけで「女」や「男」を取り扱っている、とっても非科学的な、つまりは学術的ではないように思える学術的研究というのがやはりある。そういうものにはフェミニストとしてというよりも科学的な研究を志す者として、ツッコまずには入られない。たとえ研究の結果や結論が自分の方向性と違っていても、それが実証的で理論的なら、ツッコミようがないのが、学問の世界。フェミニストが偏っているからツッコむんじゃない、自分がぬるい手続きしかしてないからツッコまれる、そういうケースもある。

 学術の世界でツッコミをかわす為に「フェミニズム的」問題意識を装うことは、結局「女」の視点はあったらいいがなくてもよくて、気持ちの上で共感しとけば納得してくれるだろ的な差別意識を丸出しにするだけだから、気をつけたほうがいい。自分が取り入れない視点について指摘されたら、取り入れない理由を自分の研究目的から説明すればそれでいい。女/男について、ある特性と併せて語りたいならば、そうすることが有効な理由とそれが適切であることを納得させるデータをしめせば済むんじゃないの。かわさなくたっていいじゃん、いわんや、フェミニストを装う必要もない。

 もっと自分の脳みそで考えたことを自分のことばで言おうよ。それが私のフェミなんだけど。
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友人が日記で紹介していたので以下の記事を読んでみた。
Yahoo! zassi.net記事大賞!特集部門「ドキュメンタリー・マネー・車」新潮45●衝撃告白「人妻デリヘル嬢」をやってみました! 中村うさぎ 新潮45 10・11・12月号(新潮社)(pdfファイル)
 面白い。
 
 最初の方、どうして性的価値とイコールになっている「女」としての価値にそれほどまでこだわるのかよく分からなかった。年とともに「女」扱いされなくなると言うが、若くたって「女」扱いされない私は、その悔しさがよくわかんないというか。いや「女」扱いされるからこそ性的魅力のあるなしで判断されて、ない場合には「女」以下として取り扱われるわけで。

 後半、ホストとのセックスについての話から、なんとなく「女」としての価値を確かめたい筆者の気持ちが腑に落ちてくるのだけれども、でもやっぱりその穴を埋めるのが「女」として愛されることなってしまうのかがちょっと悲しい。

 あと、どんなに仕事に慣れても男性の暴力と性病に対する恐怖は消えないという話は、同じ経験をしていなくても、なんだか分かる気がした。個々の男性がどれだけやさしくても、「男」というものが「女」である私を傷つけかねない存在として意識してしまう男性恐怖症的なところは私も持っているから。誰も信じてくれないけど。

 それから、デリヘル嬢を買う男が精液の排泄を求めているのではなくて、性的幻想を求めているのだという話も興味深い。そしてその幻想が普段のパートナー(彼女や妻)とは実現できないのだということも。筆者は、
彼らもまた、「自分を全面的に受け入れてくれる女」を求め、己の男性的価値(性的にもジェンダー的にも)を確認したくてここに来る。それは「排泄」なのか。いや、違うだろ。それは「コミュニケーション」というものではないか。
と言う。

 ここで言うコミュニケーションの定義は何か分からないけど、それがコミュニケーションであることをもって「排泄」じゃないというのならば、私はそれに反対だ。精液の排泄だけがセックスを「排泄」たらしめているんじゃない。結婚という制度も含めてお金を媒介にしないと、その性的幻想を実現できないこと、それが(筆者とは違う意味での)コミュニケーションの不足を意味しているんじゃないのか。もちろん、私はだから恋人や配偶者と積極的にコミュニケーションをとってよりよいセックスを目指すべきなんだと考えているわけじゃないけれど、相手の性的欲望や性的幻想を無視してしか成り立たない自分の性的幻想の実現が、たとえかわりにお金を支払っているのだとしても、それが「排泄」でなくて何なんだ。

 金を払って「排泄」していると、どうして言えない。どうしてそれを「コミュニケーション」などと粉飾しなくちゃいけない。セックスワーカーの仕事が排泄を受け入れるだけの、受動的な器ではないと言いたいのなら、それはもっともと思うけれど、もっと違う表現があるだろう、と思う。

 筆者はだけど、デリヘルユーザーに物分りのいいだけのコメントでは終わらない。彼らと同じように性的幻想を抱えた妻たちが、彼らの後ろにいるってことも分かっている。そして彼女たちが自分の性的幻想を実現する、男性にとってのデリヘルのようなものを持っていないことも。

 ああ、セックスってややこしい。愛とか性的価値とか、そんなものと結びつけなくちゃ、女はセックスについて語れないの?
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 こないだ、赤ちゃんを連れて帰省した友人宅にお邪魔してきた。

 赤ちゃんを抱かせてもらったことはそうそうないのだが、凄くかわいい赤ちゃんだった。あったかいし、いい匂いがするし、ふにゃふにゃして気持ちいい。ついつい触りたくなる。

 でもね。お邪魔した友人たちの間で、「あたしも赤ちゃん欲しいなぁ。いいなぁ。」的なムードになって、赤ちゃんが泣いたときはどうするといいだとか、出産・子育てハウツー話になっていくと、私の口からは「ヘェー」しか出なくなっていく。

 たとえばね、テレビでライオンの子どもが映っていたら「かわいい!」と思うけど、飼いたいとは思わないのが大半でしょう。だって、今はかわいくたってそのうちライオンになったら手をつけられないわけで。いやいや上手く調教すれば芸をするようになるわよ、とか言われたって私はサーカスがしたいわけじゃないんだから、関係ないわけよ。仔ライオンのかわいい姿さえ拝めれば、飼い方には知識として以上の興味はないし。

 生命の誕生は喜ばしく、友人が子どもを持ったと聞けば、それは見たいし会いたいし、友人が遊びに行くときになれば面倒見るくらいのスキルは欲しいものだと思うけど、自分の赤ちゃんが欲しいかどうかは別問題なんです。

 羨ましがらなきゃ、会っちゃいけないなら、会いたくないと思うのは大人げないのかな。

 別件で、もう一つ。

 そのとき、同席していた知人が出会ったゲイの話をして、ゲイの友だちが一人は欲しいよね、という話になった。いや、映画なんかでキャリア女性の友人としてゲイが登場するのよく見るし、そういう憧れとか願望は私も分かるんだけど、普通に考えてそれは大声で言えることなのかなー、と思ったりする。

 そりゃゲイだって、自分の性的オリエンテーションに眉をひそめる人よりも、関心を持って受け入れてくれる人の方がマシなのかもしれないが、もし私が外国に行って、私のことを黄色い猿と思っている人か、「日本人の友だち欲しかったんだー。ブシドーについて語れる人がなかなかいなくて。」と思っている人のどちらかしかいなかったら、と考えたらちょっとため息が出る。

 ヘテロばかりの場で、そんなことを考えること自体、大きなお世話なんだろうけれど、なんとなく話についていけずに、てか何で私ここにいるんだろうとか考えはじめて、その場の雰囲気をぶち壊す、ダメ女が一人。
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 最近、昔よりもさらに頭が悪くなっている気がする。

 例えば会話の中で、

私 :○○については、私はAだと思うんだ。
相手:そうかな、私はAだと思います。
私 :え?だからAでしょ?
相手:いや、それも分かるけどAなんだよ。

などというやりとりになったりすると、相手と基本的に同じ意見のはずなのに、相手に自分の意見が正しく理解されないことにやるせない気分になる。私の表現能力が低いのか。それとも意識していないだけで「A」とは異なる考えに私が基づいていて、それを相手が敏感に感じ取っているのか。はたまた、私が相手の意見を自分と同じ「A」だと解釈しているのが誤解なのか。とにかく同じ考えと思う人とすら話が通じない自分の話術に辟易する。

 最近、そんなことが多い。
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2005年12月30日
長い間、神奈川に実家があったので、山口にいるときも関西に来てからも何かと東京方面に行く機会があったのだが、スカイメイトを使える年齢を過ぎてから、交通手段はもっぱら青春18切符だった。

飛行機、新幹線、高速バス、そしてムーンライトながら。東京に行く手段は数々あれど、やはりその最下層は指定席券のないムーンライトながらである。

ある年末に高校の同窓会に参加する為だけに神奈川へ帰った私は、その日のうちに関西へ戻るためムーンライトながらを利用したが、指定席券は持っていなかった。今ならYahoo!オークションで落札するとかしたと思うが当時はそんな知恵もなく、自由席のみのながら(ながらの並走車?)に乗った。

席にあぶれた私は車両からもはみ出し、連結部分に居場所を確保した。暖房のききすぎた中でモクモクと煙草のケムリ漂う車両内も決して健康的とは言えないが、連結部分は寒い上に狭く、脚をちょっと動かすだけで隣人にぶつかり、姿勢を変えるなぞもっての他で、地獄の6時間を味わった。

車両の中では通路に座る人々にも若干の余裕があって、途中の停車駅で飲物を仕入れた男が隣の男に一本を差し出し、差し出された男は礼を言って自分の持っていた食べ物を差し出す、などという一こまもあった。

差し出されたのは暑すぎる車内でうまいはずもない甘ったるいポッキーだったけど男はいただきますと言って袋をあける。

その後、どこまで行くのですか、とお茶をもらった男が言い、相手の男が岐阜だと答えて話は終わる。はじめから会話が弾むことを期待して投げかけられたことばでもなかったのだから、その後の沈黙は気まずいと言う程でもなかったと思う。

また何事もなかったかのように電車に揺られて、それは特別な出会いにも思い出にもならずに終わるのだけど、しかしそこには決して快適ではない旅を共有する者同士の連帯が生まれているように見えた。

そんな連帯すら生まれようもない連結部にいる私も彼らも、そんな旅を楽しんでいるわけではないのだが、それでもわずかなお金と時間を惜しんで、きっとまたムーンライトながらに乗るのである。

決してケチなわけではない。年末の旅とはそんなものだと思っているだけなのだ。
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2005年12月26日
■上野千鶴子講演:「ジェンダー・セクシュアリティ研究に何ができるか」全文公開!!
 まずは公開して下さった本人とサイトの方に感謝。引用禁止はソース限定の為なのか、部分引用で曲解されるのを避けたいのか、限定的な空間で話したリップサービス的な内容を他の言論と同格に扱えないということなのか、よく分かりませんが、引用はしないことにします。

 ざっと読みました。PC画面上で読むには量が多いけど、プリントアウトすれば口語だから、さらっと読めます。「ボクちゃん」などの表現が気にならなければ。

 気になったのは、質疑応答のところで、性からの自由と性への自由の両方をフェミニズムは肯定してきたという上野さんの話に対して、しかしそれは対立する場合もあるがそれについてはどう考えるか、という質問が出たところ。これに対して、上野さんは交渉力の問題、パブリック・セックス(自慰じゃないセックス)はコミュニケーション行為なんだから、って答える。

 なんか前向きな人なんだなーって思った。コミュニケーション志向というか。相手の同意を得ずに自分の気持ちを押し付けるのは、それは問題なのは分かるんだけど。そもそも交渉力とかコミュニケーション能力って誰でも頑張れば身につくものなんですかね。ってとこでひっかかる私。

 たとえば異性愛の男女を思い浮かべて。男がムードを壊さず女の同意をしっかり確認する方法だとか、女が淫乱と思われることなく性的欲望を表出する方法とか、どれだけ知っているんだろうとか考える。そりゃまあ、慎重にお互いの意思を確認することがムードを壊すと考えるような女とは付き合わなければいいとか、女がやりたがったくらいで淫乱と思うような男はこっちから願い下げと思え、とか言われたら(上野さんがそう言っているわけではない)まあそうかもしれないんだが。

 なんというか、コミュニケーション能力って、単純にコミュニケーションに得手不得手の人がそれぞれいるというだけでなくて、自分の気持ちを表現できるボキャブラリーが初めから社会に存在する人が初めから有利に立っているわけで。他者との関わり全てを否定したいわけではないが、コミュニケートするのに非常に困難を伴うことが予測されるので、そんな思いをするくらいならもういいよ、と思っている人とかもいるわけで。失敗を恐れずぶつかってみなさい的な発想はとても前向きだが、私には無理かもしれないとかぼんやり思ったりする。
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 イブにマルイ行きました。あほだな、私。特にムカついたのが、女連れで歩いてるダウンジャケットの男!自分の彼女を人ごみから守ろうと必死で周りに気が配れない上に、ダウンジャケットで皮膚感覚が鈍くなっているんだろうな。膨張した自分の身体がカヨワイ他の女を跳ね飛ばしてるなんてことに気づきもしないんだ。ぶつかっといてなんなんだ、無視かよ。邪魔なんだよ、ボケ。

 その後は友だちのクリスマスパーティーに参加してきました。ごちそう食べました。カラオケも4時まで頑張りました。「妖精」とカラオケ行ったのは初めて。「もののけ姫」歌ってました。私は相変わらず「ルパン三世のテーマ」です。みんなアニソン・懐メロ好きだったから楽しかった。

 25日に姉からのプレゼントが届く。スキンケア用品。「妖精」にじゃなくて、私にくれたんだよね?頑張るよ、私も。
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2005年12月24日
 ええと、のざりんさんからいただいたお返事に対する記事を書いていたら、アップする直前に消えました。泣きたい。←こういうこと日記に書いている人よく見たけど、本当に一言書かずにはいられないんだね、この切なさ。

 内容に戻って。

 前の記事を読み返してみたのですが、「世界、障害、ジェンダー、倫理‐「迷惑ではない」ことの押し売りという迷惑」でのざりんさんは
つまり、他者は「迷惑を一方的にかける可能性のある存在」であるがゆえに、彼らの生をそういうものとして肯定するということは、彼らの生が私たちの社会にかけうる迷惑や負担を「誰が背負うのか」という問いに、「社会が背負うべきである」、そう答えることが真の意味における共生ではないのか。
と言っているのに、それに対して私は、
お金ではなくその労働力を「誰が背負うのか」も問題。
とかコメントしていて、なんだか初めからアレレなコメントをつけてしまっていたのだな、と気づいた。私の脳内では、
自分の要望を細かく説明しなくてもいい気心しれた人に介護/介助を頼む方が障害者によって気楽な場合もあるだろうな
→でも、自分に対してNoを言えない人にばかり頼むのはおかしいような
→「社会が背負うべき」賛成だ
→でもこの場合「社会」ってなんだろう
→金銭のコストならば税金で介護/介助のコストを担うことが社会が負担を担うということになるかもしれない
→でも、金持ってる人は金だけ払い、そうしなければ生きていけない階層の者が実際の介護/介助を担うというのもなんだか変。
という感じでした。

 結局私は、社会が「何を、どう担うか」ではなく、その社会の一員として、健全者の一人として私が「何を、どう担うか」に関心があるようです。

 そして私は
私を含めた健全者は健全者として得た利益を障害者に還元する義務があると思う。
健全者の一人ひとりが担うというべき、というスタンスを取りたいなぁ
と書きました。ここから、のざりんさんの
健全者の一人ひとりが「くまなくすべて介護をする」という部分の責任を負うべきでしょうか?僕はそうは考えません。実際問題、介護者は必要でしょう。だからといって、すべての人が介護をさせられる社会もまた、僕はうまくいかないと考えています。「すべての人が介護をしなければならない」社会もまた、介護や障害者を特別視していることにはならないでしょうか?
という疑問が投げかけられたのだと思います。私自身の中に、「すべての人が介護をしなければならない」という考えがあるかというとそれは確かに否定できないのですが、それはどちらかと言えば「義務」ということばよりも、それが「当然」となる社会を目指したいとした方が、自分の気持ちに近かったかもしれません。私の感覚では、多くの健全者は「介護をしなければならない」という以前に、介護/介助から離れたところに身を置いているという感じがします。"障害者には介護者なり介助者なりがいて、(障害者本人というよりも)その人たちが何が最良なのかを知っていて、だから私は何もできない、何もする必要が無い"という思考回路をつくる枠組みが社会にできていると思うのです。

たとえば。

 たとえば、電動の友だちと電車に乗る。力持ちさんの友だちを何人もつれいているから別に駅員さんの介助の必要は特にないのに、「次からは事前に連絡してから来て下さい」と言われる。なんかおかしくないか。車掌さんは走行中に降車駅に連絡をとり、向こうでは「係」の駅員が待機していて、案内をしてくれるが、その人は明らかに窓際っぽい人だったりする。なんか、おかしくないか。

 たとえば、小学校の頃。知的障害の子がいて、クラスに「係」の子が決めれていた。あるとき、遠足の班決めになって、いつも「係」の子は知的障害の子の面倒を見ているのだから、遠足くらいは別の班にしてあげようという話になった。とっても、おかしくないか。

 たとえば、本屋のバイト中。車イスのお客さんが上部の棚を見つめていたら、「お求めの本がありましたら、お取りします」は私も言う。だけど、ここに例えば、親戚の子のプレゼントを探しに来たお客さんがいて、選ぶのを手伝ってくれと言われ、小一時間くらい商品の説明とか相談にのったりとかして、結局何も買って帰らなかったとする。服屋ならザラかもしれないが、うちの本屋は普段めったにそういうことはないから、多分、同じお客さんが来たら、少なくとも自分から「何かお求めですか」とは声をかけない。だけど、実はその人は視覚障害者だ。小一時間、本を物色したり立ち読みしたりした後、何も買わずに帰ること自体は別に珍しくもなんともないこと。だけど、その人は店員の手助けを必要としたから、疎まれてしまった。ならば、と言って、いつでもその人は介助者を連れて歩くべきなんだろうか。そんなの煩わしいこともあるだろう。そう思うから、その人の役に立ちたい私もいるが、また一方でその人にまた小一時間付き合ったら店長に職務怠慢と評価されるのではないかとか今日割り振られた仕事が終わらないだろうな、などと考えて結局声をかけない。なんか、おかしくないか。どうして仕事中というのは、この場で銭になることにしか気にかけてはいけないのか、と疑問に思いつつも、それに負ける。私ってその程度の人間。

 結局、健全者の中には障害者と介助者をワンセットとして考えていて、介助者が障害者のそばにいるのならば、そのことをもって「彼らが介助するのだから、私には関係ない」と思い、介助者がいなければいないで「介助者がいないということは必要なことは自分でできるということなのだろう。だから私には関係ない」という形で、どちらにしろ障害者のディスアビリティやハンディキャップに対して思考停止してしまっているところがあるんじゃないかと思う。というかそれ前提で社会が成り立っているってゆうか。

 何にましても「障害者」ならば優先、とか、「障害者」のニーズが何より尊いみたいになると、それは「介護や障害者を特別視している」ってことになるのかもしれないけれど、私が言いたいのは上記の思考停止から解放されて、誰かの不便を手助けの必要な状態と素直に認識できるようになりたい、とそういうこと。「すべての人が介護をしなければならない」という気持ちも否定できないけれども、それは全ての人が介護者/介助者になるべきだ、と考えているのではなくて、本屋の店員が介助したっていいじゃないか、その場に居合わせたよしみで介助したっていいじゃないか、とそういう感じなんです。

 そして、それが当然であるという前提で企業とか地方自治体とか国とかは運営を考えろって思う。これは個人の介助力を当てにしてハードを手抜きしていいって意味じゃないですよ。そうじゃなくて、介助/介護の必要な状況が発生しないという前提でサービスを作るなってことなんだが。

 どんな状況で誰がどんな介助/介護をすべきかということが、障害者の利益とは無関係に(反するとは限らないけれども)、決まっていて、それに健全者も縛られている気がする。それはもちろん健全者に有利なルールなのだけれども。

 あとのざりんさんの
どこか行く先に行きたくても、行けない人がいるからこそ介護者が必要なのではないでしょうか?
という指摘から分かるように、私の想定している介護/介助というのが、生命や生活の根幹に関わる部分を含んではいなかったということに気づきました。それ以外でも、やっぱり私は健全者について語っているという時点で、この記事を含めて私のコメントはのざりんさんの記事に対して「ピント外れ」だと思っています。結局長々と書いてしまいしたが、適当にスルーして下さいね。



注:でもそれを「誰でも介助/介護できるようになるべき」と言い換えたくないのは、誰が介護/介助を担うのかということには、特に社会全体で見た場合に、健全者-障害者軸とは別の軸によって下位に位置づけられた者がそれを担うことになる、という問題が私の中で無視できないからです。
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2005年12月19日
 この日曜日は研究会があった。先生という立場の人がいない研究会なので結構打ち解けた雰囲気でいつも話ができる会なのだが、今回は喫茶店で報告を聞いて質疑応答、その後、梅田のなりパラに行って、コスプレ(ちなみに私は鬼太郎コス)してカラオケして、次は居酒屋でご飯を食べながらまた議論の続きをした。報告していただいた研究内容もとても興味深かったのだけど、後半居酒屋で話していたことが色々胸に刺さって考えさせられた。

 後半の議論は、今回報告した方に対して、いかに「フェミニズム的」問題関心から距離を置くかということを、フェミニストを自認する二人(私ともう一人)が説得する形になっていた。"二人が"と言っても、私は「ジェンダーの視点を入れるからといってフェミニズム的な問題関心で論じる必要はない」というようなことをぼんやり言っただけで、あとの論理的な説明はもう一人のフェミっ子がしてくれたのだけど。

 大雑把に言うと、報告してくださった方は、「少女」や「女らしさ」について論じる以上ジェンダーの視点は外せないと考えていて、また問題関心というか興味の方向は"メディア"にある。だけども以前フェミニストから、これこれの問題意識が足りないとかそういうような厳しい批判を受けたことがあったために、しばらくはフェミニズムから離れていたが、今回少女雑誌について論じるにあたっては、「フェミニズム的」問題意識にのっとって論じる、と"割り切って"挑んだらしい。

 「フェミニズム的」とカッコつきで書くのは、私は根本的にフェミニズム研究の問題意識だとかどの立場から論じるかということにもっと自由度が認められるべきと考えているから。だが、「女らしさ」とその再生産の解明とか、そこからの解放・ずらしの展望とかが「フェミニズム的」研究目的であると考えられているという自覚はある。そしてそういう目的で研究することが有意義であることはもちろん疑っていない。

 そうなんだけれども、ある研究者が別の問題関心や興味の方向を持っているのに、ただ女というだけで、ただジェンダーの視点を取り入れるからというだけで、これこれの問題意識を持たなきゃ駄目なんだなんて言うのは、たとえその問題意識がフェミニズム的であったとしても、私のフェミとは反するわけで。だって"自分の"考えていることを表明するより、どこかの女とかフェミニズムの代弁者であることが優先せねばならないなら、何のためのフェミニズムなのか分かんないとか思うわけで。で、多分私と同じように思っているフェミニストはそんなに少なくないと思っているのだが、彼女はそうではないフェミニストの犠牲になり。だから、改めて「フェミニズム的」問題関心で論じる必要はないということを、フェミニストである私が主張しなければならないヘンテコな状況が生じてしまう。

 ただ、研究者を志す者で且つフェミニズムを主たる研究テーマにしていない者が、「フェミニズム的」問題関心にのっとらなくてもいいというレベルを超えて、フェミニスト"でない"こと、フェミニズム研究"でない"ことを注意深く強調しなくてはならないのは、(これはもう一人のフェミっ子が言っていたことなんだけれども、)フェミニズム研究であるというだけで色眼鏡をかけて評価する研究者が決して少なくないという状況があるから、でもある。

 だから、フェミニズムが取り上げてきたような対象に関心を持っていたり、ジェンダーの視点が有効であると考えたとしても、「フェミズム的」体裁をとることは、フェミニスト、アンチフェミニストの両者から「フェミニズム的」文脈で"しか"評価されないという危険性を伴うことになる。そのため、少なくない研究者があえてフェミニストではないという立場をとりながら、ジェンダーに関わることを論じているという状況があって、当のフェミニストまでもが私のように「フェミニズム的」問題関心から離れることを勧めてしまう。なんだか変だ。

 ジェンダーの視点を取り入れることと、「フェミニズム的」問題関心で論じることが別であるのは、もちろん「フェミニズム的」問題関心というのが非常に狭い意味で了解されているからであり、そのこと自体を問題化したいと考えている私なのに、結局その狭い意味に踊らされて、フェミニストを「フェミニスト」になることから排除してしまう。

 もちろんジェンダーとかフェミニズムの知をフェミニズムの文脈から完全に切り離して使用するということは不可能だと思うのだけれども、だからと言って、自分ではないフェミニストの問題関心をそのまま踏襲する必要はないわけで、もっと自由にフェミニズムの知を用いて色んな人が自分の言いたいことを表現できるようにならんものなのか、と思う。そして、そういう人々をフェミニストと呼んだっていいじゃないかと思う。もちろん呼ばなくたっていいんだけどさ。

 今回報告してくださった方に関しても、単純に問題提起と結論がずれているという指摘でことが足りれば簡単なのに、あえて「フェミニズムと自分の距離を明確にしたほうがいい」と言わねばならん、この煩わしさ。人にそんなことを勧めるからこそ、私自身もフェミニストなのにどこか正統派ではないという感覚にとらわれ続けているわけで、「そもそも正統派フェニズムなんて幻想でしか存在しないのに何言ってんだか」みたいなツッコミもしつつ、そんな私は敢えてフェミニストだと自称することで何を引き受けようと粋がっているんだろう。

(追記)
このことについて、友人と話していたらまた別の考えになったりもして、なのでまた書き足すか書き換えるか続編書くか、します。(2005.12.20)
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のざりんさんから、私のことば足らずのコメントに返事をいただきました。ありがとうございます。
介護労働は、僕は単に介護に向いている人とそうでない人がいると思う。そして、端的に言ってしまえば、障害者の必要を満たす人なら、金持ちでも外国人でも誰でもいいのではないか。
 ええと、外国人が介護の担い手となること自体が問題、と解釈されても仕方が無い文章であったことをまずはお詫びします。言い訳がましいですが、コメントの意味を説明しなおしますと、外国人であること(言語や価値観が違うとか)が介護に適していないということではなくて、労働力が安価であるとか低い労働条件でも文句を言わないとかそういう理由で、外国人を積極的に雇い入れる流れが出てきたら問題であると言いたかったのです。そうなれば、全体として介護者の労働条件は悪くなるでしょうし、当然一部の上層向けサービスを除いて介護労働の質も低下すると思います。

 あと、障害者の生命維持に関わるような部分だけじゃなくて、学校に行くとか、働くとか、ぶらぶら買い物に行くとか、娯楽とか、そういう生活を支える介護というかハンディキャップの除去というか、そいうのは障害者が介護者を連れて歩いて実現するんじゃなくて、行く先というか社会の側で用意されるべきだと考えていて、その為には介護が下層労働者の仕事というふうになるんじゃなくて、健全者の一人ひとりが担うというべき、というスタンスを取りたいなぁと思ったりもします。自分できてないんですけど。
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2005年12月15日
 うーむ、自分の中にある若年差別意識について。

 前にこの記事書こうと思ってたんだけど、誰かに対して抱いた差別意識とか見下しの感覚とかそういうのって正直に話すことが誠意になるとは思ってないんで、自己満足にしかならないなら書かない方がいいかなーと思ってあきらめたんだけど、そもそも日記って自己満足だしとかいう正当化をして、ちょっと書いてみる。相変わらず絡まれてしまうrir6さん申し訳ありません。てゆうか、絡まれていること自体知らないかなぁ。

 なんか、rir6さんの記事に対して、高校生という理由だけで根拠を説明せずに幼稚と批判して、しかもそれを学校教育のせいだと言っている記事があって、その記事自体は多分rir6さん自身、「あ、自分のこと書いているなー」と思ったぐらいで相手にもしてないと思うんだけど、私としてはそれなりに腹が立ち、しかし自分の中にも同じようなところがあるということを微妙に嗅ぎ取り自己嫌悪に陥った次第。

【前振り‐若年差別について】
 一応、あるテクストが、どのような立場から述べたものなのかによって正当性が変わってくること自体を否定するつもりはありません。どれほど客観的な分析に徹していたとしても、文脈に位置づけて理解することが語り手の意図とそのテクストの意味をより深く理解するために重要であることには変わりないと思っていますし、文脈を理解するためには語り手の立場を知らなくてはなりません。そうでなければ、テクストが読めないということではないし、誰が書いたのだとしても正当な手順を踏んだものは説得力があるとは思っています。

 でもここで言っているのはそういうことではなくて、反論するだけの材料を持たないために、語り手の属性をもって結論の正当性を疑わしいものだと決めつけたり、そもそも語り手の主体性が疑わしいものであると主張する、そういう批判にもならないやり口があるということ。上述の記事では、rir6さんが自分より年少であるということをもって、無謀にも、テクストの内容だけでなくそれが彼自身の語りであることにすら、疑いをかけようとしています。

 若年差別とか年齢差別などと言うと仰々しい感じがするかもしれませんが、もしも年齢による区別が本当にただ年上ということのみをもって優位に立つものならば、それはまあそれでいいんじゃないかとも思えるわけですが、そんなはずもなく、この場合(とくに男性にとって)、年齢は能力と結びつけられて価値を持ちます。そして年が若いということは無能・低能であることの根拠に想定されるだけでなく、彼が有能か否かの判断基準になっているということ、それが上述の記事が差別的であると私が考える理由です。

【で、自分の中の差別意識】
 で、こういうやり口をとても卑劣だと感じつつも、自分に同じような視点があることに気づく。というか気づいていたから、多分この記事により嫌悪を感じたんだと思う。

 前にrir6さんの友人のブログで、rir6さんの写真を見て、そこで初めて私は彼が高校生だということを知ったんだけど、それまでは年齢も社会的地位も自分より上の人間だと勝手に思い込んでいた。それで、高校生と知って、私は、驚いたけれどもその後すぐに写真を見ながら「彼はモテるだろうな」と思った。この「モテるだろうな」が、なんで差別や見下しの感覚なのかというと、例えばこれは、薔薇を見て「きれい!」と思ったのではなく「品評会にかけたら上位入選しそう」と思ったようなものだったから。重要なのは、rir6さんの写真を私がどう思ったかではなくて、もしこれが私より年上ならば例え椎名桔平似だろうと役所広司似だろうと、「かっこいい」とは思いこそすれ、性的な存在としての価値をはかるような「モテそう」かどうかという視線を彼に向けることはなかっただろうということ。

 性的な存在として彼をまなざすということは(言っとくけどオカズにするって意味じゃないからね)、例え性的な存在としての彼を(「モテそう」とか)高く評価しようとも、他のあらゆる彼の属性を無効化するという意味で、彼の全体性を剥奪する。いや、性的な存在としてまなざすことが須く(すべからく)悪いことだと言いたいのではないのだけど、そのようなまなざしを向けたのが、彼の写真が非常に魅力的だったというよりも、彼が自分よりも年少であるという理由からだったというのが、私の内なる若年差別意識に基づいているのだな、と思って自己嫌悪に陥った次第。そんなこと言いつつ、年齢を知ってしまう前の自分には戻れないわけで、あほな妄想記事とか書いて、全然反省してないっぽいよな、私。しかも、例によって、本人からクレームでも無い限り、記事の削除はしないんだわ。

【話はこじつけみたいにセクハラに飛ぶ】
 こういうことに「ああ、やだやだ私ったら」と感じるのは、例えばこれは男性教授が女子学生に「かわいいね」という褒め言葉を投げかけるのがどうしてセクハラになるのか、という問題と同じからくりだから。以下に述べるセクハラの概念がフェミニストを自称する人々に共通の理解であるとは思わないで欲しいのだが、私の感覚で言えば、女子学生が髪を切ったときに「お、似合うね」などと声をかけるぐらいは、(そして男子学生が髪を切ったときに同じように声をかけるのならば尚更、)セクハラとは呼ばない。たとえ、言われた女子学生が「こいつ、キんっもー!!」と不快になったとしてもである。

 セクシュアル・ハラスメントとしてまなざしが問題になるのは、彼女に学問(/業務)を教授(/指示)してそれを評価すべき立場にある人間が、性的な存在として評価するまなざしを女子学生(/女子社員)に向けることによって、学生(/社員)として評価するまなざしを失ったり、あるいは失っていると彼女や彼女とともに学ぶ(/働く)他の学生(/社員)に認識され、そのことによって彼らの学習(/働く)意欲をそいでしまうことだ。だから、例え褒め言葉だとしても本分である学術(/仕事)に関係の無い外見について、しょちゅう言及するというようなことを避けて、あるいは常日頃からそのようなまなざしを持っていることをにおわせるような「今日"は"」とか「いつもより」とか、そういう表現をしないようにすれば、何もセクハラ発言をしてしまうのではないかということに過剰に敏感になる必要はないと思う。

 不快にさせることが問題なのではなくて、下位の者(抵抗できない者)を正当に評価せず、しかもそれに納得することを強要し、またその事実が隠蔽されること。いや不快は不快で問題なんだが、その不快自体が表面化しない構造が問題というか。

 ただ、実際に性的な存在として見ないようにするというのは、簡単ではないかもしれない。ヘテロ男性にとって、自分より下位の立場にある女性を性的な存在として見てしまうということは、それはその女性があなたにとって異性だからではなくて「女(性的弱者)」だからなのだ、と言ってもあまりピンとこないというのも分からなくもないからだ。年少の者が年長の者に一方的に評価されることが、不平等と認識されにくいの同様に、男が女を性的な存在として評価することの権力性は認識されにくい。それは男も"同様に"女から評価される立場であるという認識があるからでもある。

 もちろん、女も男を性的存在としてまなざしているし、その評価が低ければ尚のこと、彼の尊厳を傷つけることを疑うつもりはない。ただ、棒人間(manでもいい)がときに「人間」として描かれ、しかし「女」と対比されることによってそのまま「男」を表現しうるのと同様に、高級な「人間性」と高級な「男性性」の間には、高級な「人間性」と高級な「女性性」の間ほどの乖離はない。だから、女性を性的な存在としてまなざすことは、例え彼女を高く評価するのだとしても、まなざされる側の全体性を奪う力が、女性が男性をまなざす時よりも大きくなると考えることができる。

 仮に、このようなまなざしの男女間における非対称性が存在しないと仮定しても、権力のある側からない側への性的存在としてのまなざしはやはり暴力的だと思われる。上位の者はそもそも仕事や教育という本来の目的で下位の者をまなざし、評価する立場にあるから、自分がまなざしを返されることなくまなざすということの不均衡さに鈍感になり、性的な存在としてのまなざしについても、うっかりと下位の者へことばや態度で表現してしまいがちになる。下位の者はそれを拒んだり、嫌悪をしめすことが立場上できないために、上位の者はなおさら自分のまなざしの不当性に気づく機会を逃し、結果、自分のまなざしのみを一方的に了承させることになる。

 最初に私の差別意識を正直に話すことが誠意にならないと言ったのは、このような意味でもそう。結局、不当なまなざしを素直に話すことは、彼に対する自分のまなざしの押しつけになってしまう可能性を持っているから。幸運にも彼は私の弟子でも部下でもないので、彼がこの記事を見たとしても私に対する嫌悪感をぶちまけることができるはずだと私は思っているのだが、それももしかしたら私の思い込みかもしれない。申し訳ありません。削除要請があれば削除します。

 ええと、話は戻って、まなざしてしまうこと自体にいちいち罪悪感を抱けとは言わないが(え?私は罪悪感抱くべきだって?)、そのような構造を考慮に入れれば同じ事実が上位と下位の者の間で全く異なるものとして経験されるのだということが分かってくるのではないかと思う。

 というわけで、セクシャルハラスメントの問題が加害者のモラルとか人間性に還元されるのではなくて、企業として責任を問われるようになることは、とても望ましいことだと思う。
「セクハラによる心の病は「労災」 厚労省が労基署に通知」(朝日新聞)
 ただ、このことによって、被害者の訴えが一社員ではなくて企業全体に対する攻撃だ、みたいにとられて、逆に告発しにくくなるという風にならないか、ちょっと心配。
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posted by piggy_fsite at 23:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記b_entry.gif
■「日日ノ日キ‐[モテ]男性の70%はヒゲを伸ばしたいと思っている…メガネ男子の次はヒゲ男子だ!」
 メガネは萌え属性になるけど、ヒゲはならないと思う。ワイルドなものはあえて萌えと言う必要ないし。かっこいいものとして普通に流行るということはあるだろうけど。関係ないが、女のワキ毛もいつかオシャレにならないかな。女性の70%は剃るの面倒くさいと思っていると思う。

■「世界、障害、ジェンダー、倫理−「迷惑ではない」ことの押し売りという迷惑」
「誰が背負うのか」という問いに、「社会が背負うべきである」、そう答えることが真の意味における共生ではないのか。
 「社会が背負うべき」には賛成。お金ではなくその労働力を「誰が背負うのか」も問題。介護が正当な権利だとしても、それを自分の要求を断れないような妻とか部下とか教員なら学生とかそいう人に担わせてる障害者を見ると、なんか違うだろと思う。介護を社会化するとしても、介護労働は高給ではないし、結局金持ちは金を払い、下層民(ゆくゆくは外国人労働者?)が労働を担う、ということになれば、それも何だかな、だ。うーむ。

■「世界、障害、ジェンダー、倫理−他者性が保障されるような社会政策の理念とは」
 障害者の被るハンディキャップは社会が健全者向けに作られているということに起因しているわけだから、その意味で私を含めた健全者は健全者として得た利益を障害者に還元する義務があると思う。還元すれば、健全者中心主義が正当化されるわけでもないし、仮に無差別な社会を想定しえたとして、そこにも残るだろう健全者のアドバンテージをどう考えるかという問題もあるけど。

■与党、たばこ増税再検討/公明、児童手当財源に(四国新聞)
■イタリア「ポルノ税」導入へ、財政赤字解消の切り札(読売新聞)
 ポルノとかタバコとかそれを消費すること自体のモラルが問われるようになっている商品に税をかけ、その税収を児童手当とか子ども関連の支出に当てるとか言われたら批判しにくいよねぇ。しかし、何かに税をかけるべきかどうかはその税収が何に使われるかによって是非が決められるものなのかな。そういうもののような気もする、よくわかんない。それと、これが実施された場合、子なし女もタバコを吸ったりポルノを見れば大手を振って生命の再生産に寄与している!と言えるんだろうか?言えないだろうな。

■「覚え書き−[WEB]」(純潔プログラムの成果について)
 日本も今さら失われた家族イメージを精神論で追いかけても無駄と学んでほしい。

■「ザ・のじじズム−責任は中国にはない。日本人民にもない。」
 小泉嫌いの人なら、そうそうとうなずきたくなるかな。参拝を批判した民主党を当て込んでるの?「日本人民」にも責任あるに決まってるじゃないですか。日本は独裁政権じゃないんだもん。あ、えっとブログ主さんのコメントに対して言ってるんじゃないです。中国の外相の発言について言ってるんです。

■「内田樹の研究室‐そして東京から」
 
自己決定し自己責任を取る単体の個がリスク社会の淘汰圧に向き合って「負け」続けるオプションをこれから先も最良のものとして推奨すべきなのであろうか。
 ここ共感しました。
その場合、家族の健全は、個人や国家の場合と同じように、「『うちとは違うよその家族』たちとどのようにコミュニケーションを成り立たせうるか」の能力に基づいて考量しうることになる。
 これも面白い。ただ、
もし、弱者が社会的リソースの「奪還」や公平な「分配」を望むなら、いまのところ最も堅実な方法は「健全な家庭を持ち、家族メンバーの手厚い支援を受ける」ことである。
 これはよく分からない。なんで孤立か家族かの二者択一に?「家族の人格」を想定したとき、結局、家族の中の"誰の"利益や欲望が代弁されるのだろうか。「家族」の名のもとに黙殺されるのが"わたし"の人格であり欲望ならば、「孤立したくないなら家族の利益に従いなさい」と言うのと違いが分からない。家族の機能をその家族の能力として測定するという考え方自体が、近代家族の排他性を超越しえないように感じるのは、私の読解力不足か。
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2005年12月14日
■ども。開設1年を乗り切ったピギフェミです。一見さんもお馴染みさんも、読んでくださってありがとうございます。あんまり愚痴っぽい内容にならないように気をつけながら、でも多分そうなりそうな予感も抱えながら、また一年頑張ります。

■やすい涙
 前に「私の涙は本当にやすい」と言っていた友だちがいて、ふーんそーかとスルーしていたが、最近妙に涙もろくなって、わが涙も随分と価格が下落しているような気がする。年をとると涙もろくなると言うが、そんなに言う程には年寄りじゃないはず、私。

 昔、思いを寄せていた女の子が、涙は常に流れようとしているが理性でそれを止めているので、涙は理性がきかなくなったときに流れるのだ、と言っていて、なるほどーと思った(中学生のころ)。では、今の私はどんどん理性が衰えているということなのだろうか?うーむ、そういうわけじゃない。アニメやドキュメンタリーを見ているときに流す涙は、そもそも、昔だったら感情を揺さぶられることもなかったシーンで涙がこみ上げるようになった涙なんだから。そう思うと、共感能力が高まったっつーことなんだろうか。

 共感能力と言えば、なんだかいい能力のような気がしてくるが、この手の共感能力は人生の酸いの甘いのを経験したから感受性が豊かになったという意味での共感能力ではないような気がする。もちろん、ユーモアが文脈を理解しないところに成り立たないように、悲しみも文脈を理解しなければ喚起されないという側面があるのは確かなんだろう。だけども、バラエティ番組で、別に面白くないのにテロップが大文字で流れると、なんとなく笑ってしまうとか、そういう条件反射的な悲しみを感じて泣いてしまうこともある。ああ、ここ泣かせようと思ってんだべなーと思いながら泣くときなんか、そんな感じ。

 話が少し飛ぶが、社会学なんてやってると、やたらにメタメッセージを読みたがるというか、「ここで前提になっている共通認識は何か」、みたいなことを分析する癖がついて(それに成功するとは限らない)、無意味に斜めに構えてものを見るようになってしまうので、感動のシーンでもその感動を成り立たせているキャラ設定や台詞に注意がいきがちになる。そのせいで社会学的な分析とかフェミニズム的分析は、作品とそのメディアの受け手の共感を相対化してしまうという点で、作品世界と感動の破壊行為になってしまう場合がある。ああ、こんな物語に涙していた純真な私に戻りたいよ、などと思っても無駄である。

 かといって、分析的に作品を見ていたら全く心を動かされない、あるいは、分析する余地のない作品にのみ心を動かされるのか、というとそうでもない。私の場合、それこそ泣かすためのテンプレみたいな物語にオイオイと泣きながら、それがどんなテンプレなのかを頭のどこかで批判しているのである。

 自分自身、作品をめった殺しにするような批評をすることがあるくせに、映画やテレビを見ている最中に、やれ史実/事実と違うだの、論理的にありえないだの、と口を挟むやつが心底憎たらしくなるのは、わかっていても作品の世界に浸りたいから。

 私の涙がやすいのは、回数が増えてレア度が低下したことにもよるけど、この「わかっていても」の上でしか泣けないということによる。もはや、自分の涙や感動を絶対視することができないから、私の涙はピュアな涙になりえない、それ所以であると思う。

 で、結局どうして涙もろくなったのかは分からないのだけど。恐怖に関する感覚はずっと鈍くなったのに、どうして悲しみには同調しやすくなったのかな。
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2005年12月12日
 この記事を読んで、私は真正の負け組だと思いましたよ。
コミュニケーション感度の向上を妨げる要因は、つねづね申し上げているように「こだわり・プライド・被害妄想」(@春日武彦)であるので、「こだわらない・よく笑う・いじけない」という構えを私は高く評価する。
これは別に私の趣味でやっていることではなくて、この構えは生物の個体としての「生存能力の高さ」に相関するからである。

 
「パニック」というのは、「手持ちの判断基準が使い物にならなくなる」という事態のことである。
何も判断基準がなくても、生物は生き延びるためには判断しなければならない。
この矛盾に耐える力をどう育成するか。
むずかしい宿題である。
とりあえず、ひとつだけわかっていることがある。
それはどんな場合でも、とりわけ危機的状況であればあるほど、「他者からの支援」をとりつける能力の有無が生き延びる可能性に深く関与するということである。

 ははは、全然生き延びれないっす。こだわりまくりの、プライドありまくりの、被害妄想しまくりの人間だっしぃ。ついでに言うと初めて話した人の前で笑うことなんてまずないしぃ。人に助けを求めるの苦手だっしぃ。生き延びれなかった後の私はどうなるんですかね?死ぬんですかね?
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posted by piggy_fsite at 04:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記b_entry.gif
 この記事は「無害だが豊かでもないエ/ロ漫画を羨望する意味は何?」、「無害だが豊かでもないエ/ロ漫画(2)」という記事の続きです。あんまりタイトルと関係ない内容です。しかも今回は下品な表現が多いです(私は下品とは思ってないですが、一般的には下品と思われがちなことばがいくつか出てきます)。すみません。

 せっかくだから、性教育、漫画、性表現というキーワードから気になった少女漫画に言及してみる。タイトルは『ないしょのつぼみ』。このへんで話題になってました。

ないしょのつぼみ 1 (1)
 初潮などの第二次性徴の発現を描いた作品でエ/ロシーンは「少女コミック」ほどありませんし、割と真面目な印象を受ける少女漫画です。しかし……あまりにも自分の実体験と違うので、これがリアルな小学生のありさまなのだとしたら、なんだか疎外感を抱きます。いったいこれを小学生の女子が読むとしたら、何が面白くて読むんでしょうね?この程度の知識なら、学校の性教育で十分じゃなかろうか、という気もします。

 だいたい、つぼみが第二次性徴の発現に際しておぼえる不安の、よき理解者であった友人の正体がアレでは、女の子が同世代のともだち同士で性に関わる情報交換するということを肯定するつもりはないらしい。

 一番違和感があったのは第二次性徴と性行為に対する関心(→知識の取得)と初恋(恋愛)が三位一体になっているところ。ありえねー(←私だけ?)。

 ちなみに私は、性交(というか生殖行為)というものが女性のまんこに男性のちんこを入れることだということを小学生の低学年の時分に知っていました。それは、赤ちゃんはおとーさんとおかーさんが愛し合っていればできると教えられていた子どもの頃の無邪気な私が、近所の子の無い夫婦に向かって「おばちゃんたちは愛し合っていないの?」などという暴言を吐いたことと、風呂場で自分の下半身に穴を見つけて、「これなーに?」などとこれまた大人は真っ青の無邪気な質問を母親にぶつけたことを原因として、『あかちゃんはこうしてできる』という絵本を与えられたからなんだけど。

 そんな私の初恋は、その絵本を見るはるか前の保育園のときだったし、初潮だとかブラだとかそういう第二次性徴は中学に入ってから迎えた。単に時期がバラバラだったというだけじゃなくて、絵本で見た性交をやらしいものと思うどころか自分の恋愛とは一切結び付けて考えることができなかったし、恋愛(片思い)は四六時中していても男の身体に関心を持ったのは、大学に入ってから、という恐ろしいほどの晩熟(おくて)ぶりで、私にとっては恋愛と身体の成熟と生殖行為の知識と性的欲望は全く別々のことでしかなかった。

 私ほどのバラバラぶりがスタンダートかどうかは置いといて、しかし第二次性徴という身体の成熟と性や異性への関心と恋愛と、なんかそういうのをごちゃまぜにして描くのはどうなんだよ、と思ったりする。小中学校のときに好きな男の子のちんちんがあるかどうかなんて気にしたこともなかったぞ、私は。ちなみに初潮のときはうんこもらしたと勘違いしました。血が出るとは聞いていたが、もっと鮮血のような赤い血が出ると思ってたからさー。

 あ、なんか話がずれましたけど、どうして身体の成熟と恋愛と性的知識と、まあそこらへんの経験をごちゃまぜに描くことに違和感があるかというと、自分の経験とずれているというだけじゃなくて、それが社会的な経験であるということがあまり伝わらないから。身体が成熟してくれば、自分の身体の異変に気づいて、異性の身体にも"自然に"関心を持つ。そのような変化が起こるころ"自然に"周りから生殖や性交についての知識を授けられ、また"自然に"異性への関心が高まり恋愛に目覚める。…みたいな印象を受けるわけです。

 異性に関心を持つのは別に第二次性徴のせいじゃないし、性的な知識が必要なのは自分の身体が孕める準備を始めてからとは限らない。恋愛(排他的二者関係への欲望)と性欲も別物じゃん。なんか、この漫画の、"自然"の成り行きで自分に起こった変化にアタフタする萌えキャラ少女ぶりには、なんのリアリティも感じない。大体小学校の女子ってもっとぶっきらぼうで強いでしょ?って感じなのに、そりゃこんな描きかたすれば「大きいお友だち」はさぞかし興味津々だろうよ、みたいな。エンターテイメントとしても性教育としても、つまらない漫画だな、と私は思ったけど、みなさんはどうでしょうか。
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posted by piggy_fsite at 03:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記b_entry.gif
 この記事は「無害だが豊かでもないエ/ロ漫画を羨望する意味は何?」という記事の続きです。あんまりタイトルと関係ない内容です。すみません。

 前の記事で、私のアルバイト先の本屋ではレディコミとアニメ・ゲーム関連のみ、過激なHシーンのある雑誌は紐で閉じているという話を書きました。その後、同じアルバイトの友だちから聞いたところでは、アニメ・ゲーム関連雑誌は18禁指定があって、それに則って紐で閉じているらしい。レディコミに関しては、Hなレディコミを長時間立ち読みしている少年がいたのがきっかけらしく「なんかヤバいんじゃない?」ってことで紐で閉じるようになったらしい。ちなみに、基準はその少年だったのでBL系はどれほどハードな内容でも紐はかけてないのだそうだ。なんだそれ。

 この話のあとでその友だちと、どうして少年漫画のHシーンは規制されるのかという話をしていた。それは、「やっぱり(Hというのは)男がやる側だからじゃないの」という話も出たのだが、これが理由ならば、漫画の性描写とそれを読んだ人間の性行動の相関が実証されないと正当性がないような気がするし、そういうことを実証するのはかなり難しいんじゃないかと思う。

【性的表現規制に反対な理由】
 一応言い訳がましいこと言うと、前の記事で「少年誌における性的描写への規制を解禁せよという主張には、なんとなく違和感」とか、「とっくにエ/ロ本買える年齢に達している男子ならば、なんでわざわざ少年誌でエ/ロをと主張するのか説明が欲しい」とか書いたのは、Hシーンに関しては規制があってしかるべきと考えていたからではなくて、純粋に何で規制に反対するのかが分からなかったから。

 フェミニストと自称しておいてこんなこと言うのも何だけど、私は女権拡張論者でも男女平等主義者でもない。女の権利と権限が広がれりさえすればいいと考えているわけでもないし、男と女が同じ扱いになりさえすればいいとも考えていない、という意味で。基本的には自分の自由の為に私はフェミニズムを利用しているにすぎない。だから、逆に、ある局面だけ見て女(/少女)と男(/少年)の扱いがイコールではない、ただそのことのみをもって批判している人の動機があまり理解できない。少年誌でエ/ロが規制されていることが一体あなたのどんな自由を奪っているのか?、何が問題の核心だと思ってそう主張するのか?、と尋ねたくなるのだ。それに回答する責任も義務もないけどさ。

 単純にエ/ロが見たいんだという話ならば、レンタルビデオ屋に行っても、漫画喫茶に行っても、ゲーム屋行っても、あきらかにヘテロ(異性愛)男向けエ/ロの商品の方がヘテロ女向けエ/ロ商品に比べて量も種類も多い。エ/ロの規制つったって少年が買えそうな雑誌でエ/ロシーンがあるものだってたくさんあるだろうし、逆に「少女コミック」はエ/ロシーン満載でも「りぼん」や「なかよし」なんてエ/ロほとんどないだろうし。

 少女漫画でエ/ロが描かれているから、という理由ではなく、単純に少年漫画でエ/ロが規制されること自体がイヤっつーことなんだろうか?そしてそれは何故?

 ちなみに私が少女漫画のHシーンに好印象を抱いていないにも関わらず規制するのに反対なのは(ちなみに少年漫画に関しても性的という理由だけで規制するのは反対)、少女が性に関わる情報を得られるチャンネルが非常に少ないという理由による。学校の性教育にしたって今はどうだか知らないけど、私の時には性感染症や月経・妊娠についての知識だけで、自分(女)の性衝動についての知識なんてこれっぽっちも題材にならなかった。マスターベーションが異常ではないとかそいうことも性教育の一環として教えられた、男性諸氏が大変羨ましい。

【それでも規制が必要な理由】
 しかし、「これはどうなんだ?お子様に見せてはいかんだろう。」と思うものが無いのかと言ったら、そんなことはない。前の記事で、今の少女漫画のHシーンについて「他者を傷つけるようなH行為の欲望は喚起されたり肯定されたりしそうもない、という点では非常に安全」と書いておいてなんだけど、規制すべきという正当性を、その性描写が読者の現実の性行動と関連があるかないかで考えることには少々問題があるような気がしてきた。

 例えば、私は映画が好きなのだが、女性をレイプするシーンのある映画は、例えレイ/プを否定的に描いているのだとしても、よっぽどのことがない限りは見ないことにしている。そういうシーンを見ると、気分が悪くなるからだ。気分が悪いというのは不愉快だということではなくて、本当に具合が悪くなるというか気が滅入るというかとにかくヘコむ。しかも、そういうシーンがあることを知って身構えているときならともかく、知らずにそういうシーンに出くわしてしまうとさらにショックがでかい。別にリアルな強姦シーンでなくても、コメディの中のワンシーンでも駄目だし、最終的に強姦された方が強姦した方を好きになるとかいう正当化がなされていても、とにかく駄目、ヘコむ。

 暴力的な性交が描かれていることは、もちろんそういう描写を好む男女がいることは承知の上だけれども、一方では、例えそれが実際の性犯罪の要因にならないのだとしても、ただ見るだけで傷つく人もいるということを忘れていた。規制というと自由を制限するものと考えてしまいがちだけれども、私たちには、見る自由だけではなく、うっかり見てしまわない自由も保障されるべきなのじゃないだろうか。そういう意味で、「これには暴力的シーンや性交シーンがありません」とあらかじめ保証されているメディアの存在はやはり必要であるように思う。

 この文脈で言えば、少女漫画のHシーンが「安全」かどうかは、個人の判断に委ねられると言える。ただし、体制批判的でないことは確か。結局、一人の男を一途に愛する女の子の話ばっかなんだから。処女じゃなくても、極めて貞女の物語ですよ、少女漫画のエ/ロ漫画なんて。

 この記事は「無害だが豊かでもないエ/ロ漫画(3)」(『ないしょのつぼみ』の感想)へと続きます。
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2005年12月08日
■山口県光市の母子殺人、元少年の無期見直しか・最高裁(日経)
 殺したあとに強姦したことがニュースに書かれていないのは、死体を強姦するのは「強姦罪」に該当しないからという理由からなのだろうか。「更生の可能性がないとはいえない」というのは「更生の可能性がある」というのとは微妙に意味が違うのだろうけど、どういう処遇によって更生が可能なのか、この事件に限らず興味がある。

■まもなく公開の米映画「SAYURI」に賛否両論の声(朝日)
 原文が分からないけど、「失われた日本世界」ではなくて「ファンタジーとしての日本文化」と言えばいい。と思ったら、監督はそう言っていたみたい。↓
■新たな芸者ブーム「SAYURI」(日刊スポーツ)
 しかし芸者ブームって何?この映画、役所広司好きだからいずれ見るだろうけど。

■被害者実名発表求める テレビキャスターら緊急提言 (産経)
 少なくとも、この文脈で言えばメディアで写真は公表しなくていいことになる。正直、被害者の名前を公表すべきかの判断をメディアの自律性に任せるのは恐いし、権力のチェック機能を果たしているメディアはごく一部って感じがする。が、確かに警察に一任は変だよなー。被害者自身や身内が決めるってことはできないのかな。

■国民投票法案、政府提出を検討 自公が一致(中日)
 三権分立が大事です。

■「役に立たないプレゼント」=豪雑誌調査(朝日)
 フットバスって気持ちよさそうだけど、案外不便なんだねぇ。ちなみに私の欲しいものは、保存のきく食料です。見知らぬ人からならば、ブログにコメントが最良のプレゼントです。決して、HP誕生日(12月13日)が近づいているからという理由で、おねだりしているわけではありません。ほんとだってばー。
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 あくまでも、"恣意的"ではなく"意図的"です。大層なタイトルつけましたが、ようは以下ブログ記事が面白いということが言いたい。私の解釈は多分に妄想を含んでいます。
「NWatch ver.4‐投げ銭詐欺にご注意を!」

 この記事のブログ主rir6さんに知人のすめらぎさんが誕生日プレゼントとして郵便為替を送ったことから始まる、ネタ的抗議。

【rir6さんの意図的ミスリード】

・送りつけられたのはモノ(商品)ではなく、金銭であり、かつその主旨は既にすめらぎさんが誕生日祝である旨を明らかにしているのに、これを「送りつけ商法」と疑う。ちなみに、主旨の明らかでない金銭が送られてきた場合、14日後であれ、これを使うことは誤振込み事件に関する不当利得と同じ理由で逆に受け取り手が罪に問われる可能性があると思う。

・郵便為替という誕生日プレゼントを送ったすめらぎさんがrir6さんに要求しているのは、ある種の敬意であるのだが、これを「労働力」と「個人情報」(rir6さん言うところの、市場価値のある商品)搾取の試みと読みかえる。

・贈り物に対する返礼義務は互酬性の論理に基づくものだが、これを資本主義の原理と読みかえる。ちなみに、金銭(rir6さんの言うところの資本)と契約が介入したコミュニケーションこそ、「出入り・抜け駆け自由な個人同士のコミュニケーション」であり、互酬性に支えられた前近代的コミュニケーションほど拘束力が強い、はず。

・本来、詐欺師が武器にするのは"信頼"であり金銭や市場間取引の圧力ではない。むしろ金銭と契約のみを重んじる態度こそ詐欺師を弱体化させる。しかしrir6さんは、詐欺行為は金銭に媒介されないものを包含する社会システムの破壊行為とする。

【このミスリードから読み取る、rir6さんの主張】
 もちろん、この記事がネタである以上、このミスリードも意図的なものである。では、何が意図されたものなのだろうか?

 まず、郵便為替をモノに置き換えて、「送りつけ商法」の例を出しながらも、最終的には送られてきたものが金銭であるということに拘束力の発端を見ようとするのは、貨幣というのものが単なる紙や金属にすぎない"モノ"に市場の価値を与えているにすぎず、したがって資本主義のルールは絶対的なものではなくごっこ遊びのルールと同じようなものであるという皮肉が込められている、と思う。

 また、資本主義によって搾取されるものを、資本主義によって価値が保障されているもの(商品)として呈示するのは、結局のところわれわれが金で買うことができないと考えがちな「愛情」「尊敬」などと、商品価値があると思われている「労働力」「個人情報」に明確な境界がないことを皮肉っている、と思う。

 面白いのは、全体としてすめらぎさんの好意を悪意と読みかえる意図的ミスリードが、rir6さんのすめらぎさんに対する悪意ではなく友情によって支えられてるということである。記事は、何を好意と受け取るかは自分の勝手である、それを決め付ける圧力に屈してはいけない、と言っているように見えるが、実は両者の関係が贈り物のやりとりによってアンバランスになることへの危機感を述べているにすぎない、と思う。

 われわれは贈り物をもらったとき、その好意をありがたく思う反面、借りをつくったという負債感を持つ。それを解消するために、こちらからも贈り物をし、その繰り返しが絆を強める場合もあるが、ひとたびその負債を返せない場合が生じれば、関係に亀裂が生じるか、続くとしても上下関係へと変化していく。

 贈り物を「送りつけ商法」だとして、その価値を貶めるrir6さんの本意は、そのような贈り物と負債感によらない、ある種の純粋さを持った関係性への志向であり、そのような関係性が可能であるという厚い信頼の表明なのだ、と思う。

 ああ、でもこうはっきり言ったらいけない回りくどさが「男」の友情なんだろうなー。
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 今日は太平洋戦争開始から64年目の日だそうです。

 全然知らなかったよー。てか、歴史で習ったはずだから憶えてないだけか。映画『パールハーバー』も見てないしなー。

 昔、公民の教育実習で太平洋戦争の開戦に当時どれだけ正当性があったか、という話を教案にしようとしたのだけど、ボツになった。結局、現在の日本国憲法ができるまで、日本はどれだけ戦争をしてきたか、翻って憲法で戦争放棄がうたわれていることの重要性を強調するという、指導教官の提案にほとんどのっかった教案に変わってしまった。

 私が太平洋戦争の正当性を説明したかったのは、「だから戦争を正当化する方法なんていくらでもある。それを見破れるようになれよ。」ということを言いたかったんだけど。あの時代は酷かったなんて話、私みたいな若造がして何の説得力もありゃしない。ま、主旨の問題ではなくて教案として基礎的な部分がなっちゃいなかったからボツにされたんだろうけどね。
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2005年12月07日
 昨日、本屋のバイトで雑誌の棚の整理をしていたとき、散らかった雑誌を元の棚に戻すために、その雑誌のジャンルを確認しようと中をぱらぱらとめくった。...うげっ、緊/縛プ/レイの女の裸写真がズラズラと。週刊誌の類だったかと表紙を見直したら、表紙は中高生でも手に取りそうな男性ファッション雑誌みたいに見える。おいおいおい。

 他の書店はどうだか知らないのだが、私のバイト先の本屋は、アニメ・ゲーム関連雑誌とレディースコミックに関しては、過激なHシーンのある雑誌は紐で縛って購入しないと中が見れないようにしている。成年男性向けのコミック雑誌や週刊誌にはこういう処理はしていないのだが、レディコミやアニメ関連雑誌はお子様も手にする可能性があるという意味で、こういう処理をしているのだと私は一応解釈している。しかし、男性ファッション誌はノーマーク。いいのか?

 性情報に関して規制をすべきかどうかというのはフェミの間でもいろいろと賛成反対けんけんがくがくの議論のあるところだけれども、女の裸だけ、しかも縛ってどうこうなんて写真は、やっぱり思春期の少年少女には見せたくないなーと私は思う。性的かどうかっつーことより、それをプレイと判断できる能力がない者に暴力的な性行為を見せるのは、ヤダ。

 研究会のメンバーとメイド喫茶でダベっていたときに、少女漫画にHシーンが増えているという話から、それをどうとらえたらいいんだろうね、という話になったのだけど、個人的にはHシーンを出したいためだけに物語が進展してくような漫画は、それ専門の雑誌でやってくれって感じはある。そういう漫画の物語の適当さは、やたらにどこかで見たことのあるパターンを多用しているので、パロディ漫画として楽しめるほどだが、それ以上のものではないし。それに、やたらに女がアンアン言っちゃって、そんなに感じるわけねーだろとか、いっそ男性器をはっきり描いてもいいからコンドームつけるシーン入れてとか、セーフティセックスの為に必要な情報を若い人向けの漫画には入れて欲しいな、というフェミ的な要望もある。ようするにHな漫画が少女向け雑誌の中で増えてきたことは、あんまり好ましいものとして私は考えることができない。ただ、それだから規制すべきかと言われるとそうも思わなかったり。

 これが、目をつけた男をストーカーしたあげく、無理やり押し倒して、行為に及ぶ女の子の物語をロマンチックに描くH漫画とかなら規制すべきとか思うかもしれないけど、そんな漫画見たことないし。ようするに、今の少女漫画に載っている程度のH漫画読んだところで、他者を傷つけるようなH行為の欲望は喚起されたり肯定されたりしそうもない、という点では非常に安全な読み物だと思ってる。

 少年漫画に関しても規制すべきものは、性的かどうかじゃないと思うんだけどなー。ただ、少年誌における性的描写への規制を解禁せよという主張には、なんとなく違和感が。少女誌にないものを求める少女は、とっくに少年誌を読み始めてるのだから、少年も少年誌で物足りないなら少女誌を読めばよろし。別にやおい好きの女だけがジャンプを読んでるわけじゃないよ。まぁ、少女が少年誌買うよりも、少年が少女誌買う方が恥ずかしいんだというのは、なんとなく分かるわけですが。とっくにエ/ロ本買える年齢に達している男子ならば、なんでわざわざ少年誌でエ/ロをと主張するのか説明が欲しいところ。

(追記)
 この記事は、以下の記事に続きます。
・「無害だが豊かでもないエ/ロ漫画(2)」(規制の正当性をどこに置くのか)
・「無害だが豊かでもないエ/ロ漫画(3)」(『ないしょのつぼみ』の感想)
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posted by piggy_fsite at 17:36 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記b_entry.gif
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