2006年06月28日
今日、友だちとラーメン食べに行った。(関係ないけど、この書き出し、凄く日記っぽい!)生湯葉あんかけラーメンというやつを食べたんだが、チャーシューが入っておらず、代わりに揚げだし豆腐か肉団子かトッピングを選べる。肉嫌いの私としてはデフォルトで肉のないラーメンは貴重だが、その上、味も美味しかった。



本店はここかな?↓
http://www.rakusui.co.jp/kippou/

で、帰りがけの話なんですが、道端にですね、羊かんが落ちてたんですよ。道端に羊かん。なんか違和感ある光景ですよね、道端に羊かん。だって、羊かんって歩きながら食べたりあんましないじゃないですか。友だちと歩いていて、「私今日羊かん買ったんだ、見て見て♪」とか言って鞄から取り出すってこともないし。

でもね、もし羊かん食べようと思って、つるっと落としてしまったんだとしたら、凄く悲しいだろうなーと思う。甘いもの食べたかったわけでしょ。きっと疲れてたんでしょ。で、家に帰るまで我慢できなくて食べようとしたところを落としちゃうわけでしょ。悲しいよね〜、道端に羊かん。
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他所のブログで紹介されていたのでクリックしたら、監修が見たことのある人で、なんかちょっと嬉しかった↓。



「トイレに入って最後のトイレットペーパーを使ったことがある」とか、
「スナック菓子の袋をうまくやぶれずに、こぼしたことがある」とか、結構笑える設問も。

ちなみに私の診断結果は23歳、院に進学してから私の時は止まったのね〜。「若い」という結果が出ることが嬉しくもない診断ってのは、珍しいと思う。


別件を1点。

ひとさまのブログに調子こいてコメント書いたら、私はそう言ったつもりはないのになーっていう解釈をした上で反論を書いてきた人がいたんだが、よく考えたら、私の書いたようなことを書いたらそういう曲解をされかねないのがブログ主の方は分かっていたから、あえて書かなかったことを私がコメントで書いてしまったわけで、そのせいでそのブログにはブログ主が書いたことではないことに対する反論が載ってしまって、なんか悪いこと(申し訳ないという意味でもあり、不毛という意味でもあり、流儀をわきまえていないという意味でもある)をしてしまった。私はケンカ嫌いなヘタレフェミなのに。いやヘタレな要領を得ない文章だから曲解されるのか?

「23歳」でも、こういう空気は読めないといかんなぁと反省してます。でも、ブログ主の方は丁寧な返答して下さっていて嬉しかった。
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2006年06月27日
 自分の嗜好と政治的方向性との間にギャップがあるときにどうそれに折り合いをつけるか、ということについて、ある友人が日記を書いていて、それからずっとその問題について考えながら、答えが出ないまま4ヶ月が過ぎてしまった。(それはようするに、何も考えてないってことだろうが…。)

 例えば、主人公が障害者でお涙頂戴ものの映画、あるいは障害によってエロスを表現しようとする映画(実際あるのかは知らないけど)が好きな「私」がいたとして、その「私」は障害者の人権問題を論じることに矛盾を感じないだろうか、感じたとしたらそれはどう克服されるべきなんだろうか。

 例えば、ネイティブアメリカンへの偏見に怒れる(あるいは、女が、常にまなざしの対象であり開拓の対象として位置づけられていることに怒れる)「私」が、『ポカポンタス』のロマンスに酔いしれるとき、そこに矛盾は生じていないと言えるだろうか。矛盾が生じているなら、それをどう克服するのだろうか。

 例えば、セクシュアル・マイノリティーへの偏見や差別と向き合おうとする「私」が、ヤオイやボーイズ・ラブにハマるとき、「私」はヤオイにおけるゲイへの偏見を見破ることが可能だろうか。また、この意味において、政治的に公正であるヤオイやボーイズ・ラブというのは実際に存在しうるのだろうか。

 小説や映画の中におけるマイノリティーがそのマイノリティと直接には関係しない事象の象徴として利用されていること、あるいは具体的な姿やふるまいのステレオタイプが虚構に過ぎないということを十分に認識して作品に没入しているのであれば、それは現実世界におけるマイノリティーへのまなざしとは別の次元の事柄として考えることが可能と言えるだろうか。

 以下は私の個人的なヤオイイメージをもとに私とヤオイ(的思考)との関わりについて述べる。言うまでもないが、ヤオイが同性愛者への偏見や差別に接触するとしても、それはヤオイを愛好する同性愛者の不在を意味しない。また、異性愛女性と同性愛者(レズビアン・ゲイ)の間に"読み"の明確な区分が存在することを意味しない。
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2006年06月26日
 世間で言うところの能力主義とか実力主義とかいうのは、結局のところ、実績主義のことなんだよなぁ、と思う今日この頃。いや、能力や実力を量る客観的な指標として、実績を重視することを何ら批難しようというのではない。だからと言って、実績イコール能力・実力なのか、あるいは実績がないということが能力がない、努力していないということなのか、というとそれはやっぱり違うと思うのだ。

 実績があるということは、能力があるというだけでなく、能力を発揮できる環境と、またその実績(手柄)を自分のものにできる器用さを併せ持っているということだと思う。

 無論、実績のなさが能力のなさやら怠慢やらとイコールである私みたいな人間もいるわけだが(と自分で言ってる時点で終わってる)、私よりも遥かに能力のある人が、それを発揮する機会を持てずに埋もれていくのを見ると、いたたまれない。

 知り合いの院生で、本当はあってはならないことだけど、貰っている奨学金を親に吸い上げられて、実際は時給730円のアルバイトをしながら生計を立てて学生生活を営んでいる人がいる。他方で、アルバイトをしたことがないけれども、自費(あるいは両親のお金と言うべきか)で海外にフィールドワークに出かけてしまえる院生もいる。研究に投資できるもの(時間・お金・精神的余裕)の絶対量も相対量も初めから人によって違う。量られるのは、実績。それが世の中の「平等」であり「公正」。

 色んなハンデを背負った上で成功した人の物語が感動に値するのは、それが滅多にないことだからなんだと思う。私は、と言えば、「恵まれた人々」の憂鬱に共感しながら、下克上の物語に拍手を送る、どっちつかずの逃げ人生を送っているのだけど。
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2006年06月21日
こないだデータ入力していたときに、隣の職員さんが教員と授業内容の話をしていて、結構面白そうな授業だったから耳だけで聞いていて、その教員が帰った後に、話していた職員さんに名前を尋ねたら、課長が、
「まだ独身やで。」
と横から口を挟んできた。

なんか、なるほどなぁ〜と思った。課長も、結婚相手として興味を示したのだなんて本気で思っているわけじゃないだろうけれど、そういう思考回路があるってことすら私は気づきもしなかったから。

同時に、こういう軽口でフレンドリーさを演出する世代だとは、思っていたより、「おっさん」だったんだね、と今さら気づく。

女性職員の全体に占める割合から考えれば、管理職に占める女性の割合は圧倒的に少ないし、まともな日本語も書けない男が(いや、まともな日本語の書けない私が言うのだから、本当に酷いんだよ)有望株として責任ある仕事を任されているのを見ると、学校も「男女平等」にはほど遠い。

あ、別に課長の発言に腹を立てたとかじゃないんです。ただ、それ言われたのが正職員の女性なら、かなり傷つくだろうなーって。
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写真は、今日、母が送ってきた豆腐。豆腐屋ジョニーって…。

うちの母はよく生ものを宅急便で送ってくる。こないだ、ショートケーキを冷蔵便で送ってきたときは、さすがにたまげた。私以上に、賞味期限の感覚がないらしい。
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2006年06月20日
今日、なんとなく「時の部屋」(正確には「精神と時の部屋」(C)ドラゴンボール)に入りたいなーとか思っていたら、突然ワンズの「時の扉」が頭の中で回り始めた。全体は恋の歌っぽいですけど、サビだけ見るとそうでもないね。
時の扉 たたいて
ここから 今 飛び出そう
風に吹かれ 気ままに
見知らぬ自由を 抱きしめよう
リアルタイムに聞いていた時期、確かに自分が色んなもに拘束されている気がして自由というものに憧れていたけれど、でもそれって家族(制度)とか学校(制度)とかの拘束で、"時"の統制なんてことは当時全く頭になかったと思う。今なら、"時"から解放されたいという気持ちも分かるし、自由が"見知らぬ"ものだという感覚もよく分かる。私(たち)は、未だかつて存在したことのない"自由"を求めてあがいたりしているわけよね。

もう一つ、学校行くと(現在の話)、軽音部の子が歌っているのが聞こえてきて、耳に残っているのが、「恋の奴隷」。ドラムとか入って、今風にアレンジした曲を歌ってるんだけど、歌詞が「あなた好みの女になりたい」だからね。ざっと歌詞を見ると、こりゃDVですかっていう、なんかちょー依存度高そうな歌詞なんだけれども、どこか漂う軽薄さがいい。あくまでも"あなたの"じゃなくて"恋"の奴隷なわけで、全てを投げ出せる恋をしてみたい夢見る夢子ちゃんといった軽るさでしょうか。

これまだだいぶ前に流行った、大黒摩季の「あなただけ見つめてる」(『スラムダンク』のエンディング)も好きな男の為に全てを捨てる女の歌だけど、そうなってしまうことを完全に悲観的に歌った歌であるからしょうがないが、あまりにリアルで軽さがない。確かにリアルに男に依存した女ってのは惨めなもんでしょうけど、まぁ普通、恋心ってのはもっと軽薄なもんじゃないでしょうか。

好きになった相手に気に入られるよう努力することを女の美徳にされちゃー困るわけだけれども、そう思ってしまうことを、即、依存だ、他律だというのは、それもなんだか違うような。軽薄に「あなた好みになりたい」なんて言えちゃう時代はよい時代だと思う。「あなた好み」が「わたし好み」でなければ、「あなた」を交替しちゃいます、みたいなね。なんでも自分好みで選択するのは疲れることだから。
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2006年06月17日
ついでだから父ネタを。

最近、父親の私に対する影響力について気がついたことがある。まぁ、影響力と言っても、扶養されている時分にはそれゆえ抵抗できないとか、あるいは父親の母(やその他の女性一般)に対する言動を通して、「男が女をどうみるか」とか、いわゆる男というものは、というイメージが形作られたのだな、ということは前から思ってたんだけど、なんかそういうのじゃなくて、自分が大人のモデルとして父親を考えていたのだな、と最近ようやく気づいた。

私は中学生くらいの時に、自分が自分の母のようにはなれないし、また母のようになる努力もできないと気づいたのだが、母のことは相変わらず好きだった。私にとって母は母で、私の将来像とは重ならなかったから、好きなところも嫌いなところもあったけど、「ああはなりたくない、でも私もいずれああなるのかも」などといった葛藤のない分だけ、あまり複雑な感情を抱かずに済んだし、むしろ自分とは異なるタイプの人間としてではあるけれど、尊敬の対象として見ることもできた。今もそうだと思う。

だけど父親は違う。私の父親に対する嫌悪感ときたら、ほぼ同属嫌悪のようなもので、ああはなりたくないと思っている彼の仕草から態度から何から何まで、同じ要素が自分にもあるのだと、ふとした瞬間に気づいて自己嫌悪に陥る。それがますます父親への嫌悪感に拍車をかける。言わば、彼は私が逆のベクトルを目指すための存在だった。

だが、ふと気がついてみれば――というのは、父と比べる為の、振り返るべき過去ができた現在に至って、という意味だが――、アカデミズムの領域で沈殿している私は、間違いなく父"のような"人生を目指している。母親も勉強熱心な方だと思うが、彼女にとって大学で学ぶということは憧れのようなものであり、卒業して後は実学志向であるのに対し、研究者やそれを目指す者は、学ぶ・知るということそのものが楽しいという輩だ。他にも、自分の好きになる男性に母との共通点を見つけると、性愛関係を結ぶ相手の好みまで、私は彼に似ているのだと、ほとほと嫌になる。そもそも、なにゆえ父親に対して「ああはなりたくない」と強烈に思わねばならぬのかと言えば、それはどこかで自分の将来に彼を重ねてしまうからに他ならない。

私の父は、私にとって尊敬に値しない人ではあるけれど、だからと言って、救いようのない欠点だらけの人間というわけでもない。まぁまともな方の部類に入る人間だと思う。まともな父とまともな母とに育てられた私は、まともな尊敬を親に対して抱くべきだと思うのだが(なにしろ私の姉はその尊敬を持っているのだし)、それができない。

それは多分、彼の私に対する影響の中でもっとも根深いのが、ミソジニー(女性嫌悪)だからだと思う。精神分析に明るくない私がこんな言い方をするのもなんだけど、私はエディプスコンプレックスによって父を人生のモデルにしているのではない。母を得る為に父になろうとしているのではないのだ。

そもそも、父のミソジニーの影響を根深く受けているからこそ、私は「女」になることも「女」を目指すこともできないのだと思う。女を憎み、自分を憎み、自分を憎ませている父を憎む。女を憎むゆえに父をモデルにした私は、けれども、女である私(私である女)を蔑ろ(ないがしろ)にする彼と私を、女であるゆえに受け入れることができない。

そのしがらみから解放してくれたのがフェミニズムで、私はフェミニズムに出会うことで自分が女であることを愛せるようになり、他の女を愛せるようになった。私にとってフェミニズムは、自分が女であるがゆえにどれほどの損をしているかを知らしめるものというよりも、「女であること」と複雑に絡み合った自己嫌悪やら自身を責める気持ちから私を解放してくれるものだ。

…なんだか、ここまで書いていたら、私って実は凄いファザコン??普段は、嫌な人だなーとしか思ってないんですけど。コンプレックスであろうがなかろうが、嫌なものは嫌。関わり合いにならずに済むなら、関わりたくないし。なんか考えすぎた感じ。うむ。寝ます…。
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2006年06月16日
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父の日である。いや、今日じゃないけど。

昨日、母親から電話がかかってきて、日曜は父の日だから手紙を書いてあげて、と言う。私は正直、この母の「お父さんに○○してあげて」というやつがかなり嫌いだ。もちろん、父の日に妻である母が手紙を書いても意味がないわけで、子である私が書くことに意義があるのはわかっているんだが。でも、誰かを喜ばせてあげたいとかそういうことの為に、他者を動員しようとするその厚かましさは何なんだとか思う。協力を求められれば拒みはしないが、およそ私のしたくないようなことだとか関心のないことでも、善意を笠に着て、無前提に要求しうると考えるのは何故なんだろう。

父親に関する以外でも、似たようなもので、「○○さんに××してあげて」とか、また自分の要求も「ちょっと神戸にある額縁屋さん探しといて」とか。私はコンシェルジュかよ、みたいな。「友だちに聞いておいてよ」とか意味不明、額縁に詳しい友だちなんておらんーゆーのに。でも、本人の頼みならまだ断りやすいけど、他の誰かの為に何かしてみたいな要求はマジでイや。

で、まあ、結局、父親には手紙書いたんですけどね…。写真はそのカード。母親がわざわざ事前に釘をさしに連絡を入れるのは、私が父親のことがあんまり好きじゃないってことを知っているからなんだけど、まぁできたら話とかしたくないから手紙の方がマシだし、恩義は感じているから、書きましたよ。

カード選んでいて思ったけど、父の日ってショボいね。コーナー組、ちっちゃ!全然、センスいいのないんですけど…。いやこれはデザイナーさんの力量の問題ではなくて、父の日というものの意味不明さがコンセプトを曖昧にしてる為だと思う。

そもそもなんで母の日に感謝の気持ちを述べる必要があるかっていえば、多く母親が従事している家事"労働"や育児"労働"が無償だからだ。主婦業や母親業に関する漠然とした賞賛は社会に存在するし、またそれに従事することで生活の保障を得ている者もいるだろうけれど、家事・育児をすればすなわち生活が保障されるわけではないし、個々のお母さんの努力や工夫に応じた賞賛なんて、ママ友だち同士で「偉いわ〜」と褒めあうぐらいしかないんじゃないかと思う。家族の幸せがイコール自分の幸せだと信じるストイックなマゾ母さんは別として、だから、母の日で、この無償労働を褒め称えなければならないわけだ。

ところが、逆に多く父親が従事している賃労働は、今さら賞賛する必要もないわけで、だいたい労働の詳細は分からないのだから、もし言葉にするなら「お父さん、お金稼いでくれてありがとう!」という、極即物的な物言いになるしかない。父の日カードのいくつかが、ネクタイやワイシャツのイラストで飾られているのも、父の役割=サラリーをとってくる人、という図式があるからじゃないかと思う。

他にどんなイラストがあったかというと、以下の通り。
・休日のホームパーティーらしき場でバーベキューをしているお父さん
・リビングで家族とくつろぐお父さん
・息子を肩車しているお父さん
・野球帽
・車
・赤ちゃんの足とお父さんの足を並べた写真←私が選んだやつ

欧米じゃどうかしらないけど、日本では家庭の中心はやっぱりお母さん、というイメージが私は強いので、上2つはピンとこないし、そもそも感謝の対象になる父親像ではない。3番目は、父の日にカードを送る息子がどれくらいいるのか疑問が残るし、まぁ少なくとも私は娘なので却下。4,5はもはや意味不明。野球帽は親子のキャッチボール、車はドライブとか、そういうイメージなのか。ほぼ消去法ですが、写真が可愛かったのでなんとなく5番目を買いました。個々のお父さんが子どもにどんな関わり方をしているかはさておき、イメージの「お父さん」って随分抽象的な存在でしかないというか、影の薄いものだなぁと思う。だって、「子育ては女の仕事」という社会で、「お父さん」の親性に感謝するって、土台無理な話ではないか。例えば、私は父親に恩義を感じているけれど、それは感謝というよりどちらかと言えば債務に近い感覚のもので、ありがとうというより、ごめんなさいって感じなのよね。「お父さん」とは可愛そうなものだ。

ちなみに私の選んだカードには、こんなメッセージがあらかじめプリントされていました。
"I only hope that I measure up to you some day.
Happy Father's day."
きもい。しかも、英語の用法はよく知らないが、感謝する日なのに"Happy"?とりあえず、このメッセージはマジックで線引いときました。(それも、どうなの…。)
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2006年06月13日
 別にそれほど小銭が煩わしいってわけじゃないんだけど、電子マネーに憧れる。近未来っぽいかっこよさに憧れてるだけなので、これまで実際にその種のカードを持ったことがなかったのだが、この度、PiTaPaを使うことにした。

 PiTaPaは後払いということもあって実際の使用感はクレジットとあまり変わらない。実際、ショップでの清算も、CAT端末のようなものがあってそこにカードをかざすことで清算するのだが、サインレスであることとカードを店員に手渡すわけではない、という点でクレジットとは異なるが、レジはレジでしめ、端末に金額を打ち込んで清算している手順を見ていると、店側の煩雑さはクレジットとそう変わらないように思う。やはり現金での清算の方がスムーズにいく。

 ネットショッピングを考慮に入れないならば、電子マネーの特徴はやはり現金や小銭を持ち歩かずに済む点にあると思うのだが、現状、ある電子マネー(カード)を持っていても、その利用範囲が限られているので、結局現金も持ち歩くことになって、カードが増えた分だけ、つまり支払い方法の選択肢が増えた分だけ、シンプルさやスマートな財布からはむしろ遠ざかったような気がする。

 そこで、どんな場合なら電子マネーが最大限活かせるのか空想してみた。その時、思ったのは大学の学生証との一体化。すでに、学割や証明書の自動発行機を設置してその発行に学生証を用いるシステムとか、図書館などの建物の出入りの認証に学生証を使うシステムだとかは、見聞きしたことがある。また、私が通っている方の大学では、学内のwindowsの立ち上げに学籍番号をもとにしたIDと個別のパスワードを必要とし、また自習室の利用に学生証の提示が必要なので、多くの学生は常に学生証を持ち歩いている状況にある。

 その学生証にもし通学に必要な定期券の機能と、また学内の生協や食堂で利用できる電子マネーの機能がついたならば、どうなるか。朝、家を出て学校に行き、図書館を利用し、食堂で昼食をとり、生協で教科書とノートを買う、それら全てが学生証(兼電子マネー)ひとつ持っていればよい。証明書の発行も現金やプリペイドカードを投入する必要はなく、自動発行機に学生証を差込さえすれば、学籍情報を読み取り、同時に料金を引き落としてくれる。学生証には通常顔写真がついているはずだから、通常の電子マネーやクレジットカードより、盗難の危険も低まるかもしれない。

 ただここまで考えて、ちょっと思いなおした。大学の生協には、流行のファッションは置いてないかもしれないが、生活に必要な日用品の類はほぼ取り揃えられており、これで有料の課外講座の申し込みも電子マネーで可能というところまで行き着けば、親は子供に電子マネーさえ渡しておけばお金の使い道を管理することが可能になるのではないか。

 例えば、仕送り10万を渡して一ヶ月をやりくりさせるよりも、家賃や光熱費などは親が負担するかわりに、4,5万の仕送りを渡す方が、無謀なやりくりを防ぐことはできるが、子供の自由度は低まる。これに電子マネーを加えれば、子供は生活に必要なものをいつでも購入できるのは確かだけれども、電子マネーでは購入できないものに関してつぎ込むお金を失うことになる。

 学生時代の一人暮らしの醍醐味は、いかに節約できるところを節約して自分の使いたい用途にお金を回すかというその工夫にあると言ってもいいんじゃないかと思う。もちろん、多くの大学生はアルバイトをしているけれども、決まったお金で生活をやりくりするのは一つの技能であり、時には遊びにお金をつぎ込みすぎて、携帯がつながらなくなったり電気がとめれたりするのも、愛嬌というものである。

 そんな困った事態に陥らない保障を電子マネーで得られたとしても、いつ何にいくら使ったのか、それを全て親に管理されている大学生なんて、なんかとてもカゴの鳥みたいだ。学生生活の全てを電子マネーでまかなえることを可能にするシステムは、ゆえに、個人の自立を阻む生活監視の機会を親に与えることになるかもしれない。それはとっても恐ろしいので、やはり大学の電子マネー導入はしないで欲しい。
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2006年06月12日
ここんとこ更新した日記で、電車内ネタが多いのはそれ以外では思考ストップしてるからです…。

電車の中吊り広告を見て。

ふたりで暮らすとCO2は減る。

洗濯機も1台、冷蔵庫も1台。
月のエアコン代も半分。
人は結婚することで環境にやさしくなれる。
ソトコト7月号はロハスなカップル65組に
サハダイヤモンドのエンゲージリングをプレゼント。
付録にエコな婚姻届だ。

住む、食べる、着る、旅をする、癒す。
あなたが選ぶデザインはあなた自身だ。
今号はロハスデザインとプロダクトの総力特集。
いますぐ買えて、美しく、持続可能なモノが勢ぞろい。

おかげさまで7周年。感謝です。

アホかと思うのは私だけですかね。「ロハス」とは、Lifestyle of health and sustainabilityという英語の略だそうで、つまりは自分の身体の健全と地球環境の健全の両立を目指そうみたいな感じと私は解釈してる。エコって嫌いじゃないんですが、てゆうか、どっちかってゆうと気になるほうですけども、だから、一人より二人でくらした方がエコノミーなだけでなくエコロジーなんだってゆうのは分かるけど、だからって、なんでエンゲージしたり、婚姻届だしたり、カップルにならねばならんのかっつうの。意味わからん。気の合う人と同居しましょでは何故いかんのか。

 その原理でいけば、一人よりも二人、二人よりも三人ってことで二世帯住宅はよりロハス、施設入所はよりロハスってことになりませんか。まぁこれは極論ですけど。
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 ある駅のホームで電車を待っていたときのことだが、1番線と2番線のアナウンスがほぼ同時に流れ始めた。一方は男性の声、もう一方は女性の声でアナウンスされ、響きやすい地下のホームで聞き分けやすくする為の工夫なのかと思い至り、なるほど、そういう使い方もあるのだなぁと感心した。

 ところで私は今、「男性の声」「女性の声」と言ったけれども、声は随分と性の境界線が曖昧なものだとも一方で思う。

 以下は漫画の話だが、登場人物が女装や男装によって異性になりすますというシーンは割とよく見ると思う。そして、また声を出すことでその異性装がバレてしまうというパターンもありがちなものとして頭に浮かぶ。しかしながら、たいていの場合、私はこのオチまでくると、ハッと今自分が漫画を読んでいるのだという現実に引き戻される。

 というのも、怒声や震え声、かすれ声、ヒソヒソ声といった声色は多くの場合、装飾的な字体によってビジュアルに表現され私はその声の違いを「聞き」分けることができるが、声の男女差は、てよだわ、ぜ、などの言葉遣いか、あるいは男キャラ女キャラの絵と吹き出しを連結させることによって、それが男あるいは女の声であることにしているだけである。キャラの声をリアルに想像する読み手もいるだろうが、吹き出しのフォントに差がないのであれば、そこに声の男女差は無いと言っていい。声に男女差がなければ、異性装が声でバレるということはあり得ない。

 なのに、現実には声に男女差がありそれによって異性装がバレるだろうという作者のリアリティが漫画に挿入され、無性化されていた声が突如、性化される。というより、男の声、女の声がそこに既にあったことにされる。それで、私は、ああ私は今漫画を読んでいるのだっけ、だから声の違いが分からなかったんだわ、と現実に引き戻されてしまうのだ。

 ここでは、「現実には声に男女差がある」あるいは「声をきけば男の声か、女の声か分かる」ということが前提になっているのだけれど、本当に現実世界では男の声と女の声は区別がつくのだろうか。そして、区別のつかない声を奇異なものとして、私たちはとらえるのだろうか。

 ここからは、また私の経験の話になるが、電車で車掌の席が見える席に座ったとき、たまたまその時は女性の車掌だったのだが、とてもきびきびとした動作に見惚れて、へぇ〜車掌さんってこんなことしてるんやなぁくらいにボーっと彼女を眺めていた。駅に近づき、アナウンスが流れたところでふと気がついたのだが、私が一見して女性の車掌だと気づいたように、彼女は男性の車掌とは明らかに違う制服を着ていて、女性であることが一目で分かったのだけれど、その車内アナウンスは、物真似でよく聞くあの車掌独特の声色で、男性ぽいわけではないが、女性の声かと言われたら、別にそうでもないような声で、本当にどちらともとれる声なのだ。

 こんな風に男か女か分からないような声でアナウンスされても不思議に思ったり奇異に思ったりする乗客はもちろんいない。それが車掌らしい声であれば(つまり素人が勝手にアナウンスしているのではと疑いたくなるような声でなければ)、男でも女でもどっちでも構わないからだ。

 声は身体との結びつきがとても強いように思うけど、服装などに比べると、たとえばテキストのような生産物並に男女の境の曖昧さが許されるもののように思う。プロフェッショナルであることが性差を超越するのはもちろんのこと、ものすごく野太い声の女の人や甲高い声の男の人は違和感を持たれることもあるだろうけれど、男でも女でも通用する声色の音域(?)はかなり広いように思う。

 まぁ、こんな長々書かなくっても、女性の声優さんが男性キャラの声優として活躍していることを考えれば、当たり前のことなんだけども、冒頭の「男性の(/らしい)声」「女性の(/らしい)声」は、フィクションに過ぎないのだなぁと改めて思った次第。
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昨日、友人の「うさぎ」が泊まりにきた(むろん、セーラー戦士ではない)。今朝、「うさぎ」が眠っている間に家を出ようとしたら。…ドアが開かない。

「うさぎ」は厳重派でドアにチェーンをかけていたらしい。私の部屋の鍵はふつうの鍵とチェーンと、それからもう一つ、トイレの鍵みたいなスライド式のと3つ付いているのだが、チェーンはほとんどかけたことがなく、よって外し方がようわからん。どこの家にもついているものだが、それでいてクセがあり、一発で外せた試しがない。自分の家なのに外に出られず朝からアタフタ。

ようやくチェーンを外した私は、決して仕返しではないが、鍵をかけずにそのままでかけた。鍵を部屋の中に置いているので致し方ないが、今ごろ厳重派の「うさぎ」は悲鳴を上げているだろう。ごめんね、「うさぎ」、起こすのが忍びなくてさ。
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土曜に出席したシンポジウムのテーマは「暴力」だった。
日曜の昨日は、「暴力」を見た。

 それは本当に突然のことで、空いた車両で腰掛けた私が、重い物音にそちらを見たら男子高校生が相手の顔を殴り、またさっき聞いたのと同じ重い物音がした。加害者は悪態をついて別の車両に移っていったが、被害者は無抵抗で微動だにしなかった。まもなく次の駅につくと、被害者の男の子は降りてうずくまっていたが、もちろん電車はそのまま発進し、彼が去った後に残った血の水たまりから私は目を反らした。

 私を含め周囲にいた者がみんなその状況を見ていたにもかかわらず、誰もが「見ないふり」をしていたのは、あんまりにも恐ろしくて(加害者が、ではなくて暴力行為そのものが)声も出なかったとか、あまりに突然で止める間もなかったというのもあるだろうけれど、もし殴られたのが男子高校生ではなく女子高校生だったら、もし殴られたのが小学生だったら、もし加害者と被害者が両方高校生という状況でなかったとしたら、私はさっき述べたような理由で自分が何もしなかったということを正当化できただろうか? 言い換えるなら、私がもし、武術だとか武器だとか権力だとかによって加害者の男の子を組み伏せ諫める力があったのなら、あるいは、暴力を目の当たりにするこに慣れ、暴力の現場でも萎縮せずにいられるとしたら、あの暴力に対し、あの被害者に対し、なんらかの働きかけをしただろうか?

 今ここで言わんとしているのは、物理的暴力行為へ介入するのが平和主義者の美徳であるとか、「暴力」を否定する者の矛盾ない態度なのだなどと言うことではない。男であれば暴力に耐えられるとか、高校生同士ならば無抵抗の者を殴る行為であっても行き過ぎではあるが喧嘩の範疇として片づけようとする、それは先生から生徒へ、親から子へ、夫から妻への暴力を教育とか躾とか愛だとかの名のもとに不可視化する構造的暴力と全く同じなんだと思う。殴られることは怖いし、痛いし、その恐怖と痛みを周囲の人間に無視されることで無かったことにされる不信感に、男も女もあるだろうか。相手が誰かなんて関係あるだろうか。

 シンポジウムで構造的暴力だとか暴力によるトラウマだとかについて耳を傾けた後、結局私はその知識を自分の何にしたんだろう、と思う。

たぶん、日常的に暴力を目の当たりにするコミュニティにあっては、目にする暴力に介入することは、賢い生き方でも根本的問題解決にならないと指摘する人もいるだろうし、また殴られた彼が被ったダメージと私が想定しているそれがズレている可能性もある。

だから、私やあの時同じ車両にいた人たちがどうすべきだったについて、ここで結論づけるつもりはないのだけれども、なんだかとてもやりきれないのだ。
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2006年06月11日
うちの近所の話。
マックとスタバの間には、花屋がある。

仕事は特に業務の忙しい時でない限り、ほとんど定時で上がれるのであるが、それでも家に帰るとほぼ同時に眠くなって何もできなくなるので、仕事帰りは、スタバに寄ってそこで本を読んだり勉強してから帰ることにしている。

私はもともと一人きりの自宅や静まりかえった図書館よりも、少しザワついた場所の方が集中できるので(話しかけられるような場所は別)、喫茶店はもってこいの読書スペースなのだ。

スタバは、ザワついていると言っても、音楽をかき消すほどの奇声をあげる若者はいないし、そこそこに静かで、席も硬くなく、周りに勉強しているおひとりさまも多いなど、いい条件がそろっているのだが、まぁ少しお値段が高いのがね。もちろん、それでも普通の喫茶店に比べれば安いのだけれど。

それと閉店時間がマックの方が1時間か30分程度長いということもあって、マックを利用することもある。

これはこの前マックを利用したときの話だけれども、私のよく利用するマックはよく高校生のたまり場となっていて、壁やテーブルを叩いて騒いでいるのを見かける。その時は、その度を越して、鉄砲玉のように店を飛び出したかと思ったら、店の外で殴りあいのケンカをおっぱじめた。

驚いたのは、どう考えてもこのケンカは迷惑この上ない行為にも関わらず、そのマックの店長は、どこか息子の友人を叱るような態度でその高校生たちに接しているのである。怒っていることには変わりないのだけれど、どこか高校生とはそんなものだと許容しているようにも見える。客としてはこの上なく迷惑なこの高校生たちも、地域社会においては、もしかしたら祭「だんじり」の担い手かもしれず、確たるポジションを占めた存在なのかもしれない。一つの注文で粘って居座っているという点では、私もその高校生たちも変わりないが、どこか私の方がマックでは異質な存在のようにも思える。

一方、スタバでは先述の通り、勉強してる人、モバイルPCで仕事をしている人が半数くらいを占める有様であり、周りで交わされている会話も、友人の誰それは海外留学してそれを活かした仕事をしているだの、どこそこの大学で教鞭をとっただのという、いかにも高学歴っぽい内容をしていたりする。なんだがマジトークが多い気もする。店員は、男女ともにさわやか系の美形揃いでマックよりも格段に愛想がいいが、かといって客との間に、客と店員を越えた関係が築かれている様子は全くない。

マックとスタバとは、歩いて1分もかからないほどの距離しか離れていないのに、どうしてこんなにも客層やら雰囲気に階層差とも思える違いが出るのだろうか?一体、マックとスタバの間には何があるんだろうか?

マックとスタバの間には、花屋がある。
花屋は一体何を示しているのだろうか。
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2006年06月10日
長いこと日記を休んでいたので(またこれからも休むかもしれないけれど)、ちょっと他で関係ない日記書いたり再起訓練中です。他の人のブログもとんと読んでなくって、ブログの書き方自体忘れてしまった感じ。まぁ書き方にこだわるほどのものは、前から書いてなかった気もするけど。
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