2006年08月28日
今さらなんだけどバンプのsupernovaの歌詞が好きだ。まぁ売れてるから、好きな人はいっぱいいるよね。私はこの歌詞、社会学的っちゅうか、現実の主観性について述べたものだと思ってるんだけど、聞いてすぐ、大事MANブラザーズバンドの「それが大事」を思い出したと言ったら、ゲって思われるかな。

「それが大事」の歌詞って結構説教クサイしね。でも私この歌の「ここにあなたがいないのが 淋しいのじゃなくて ここにあなたがいないと思う事が淋しい」っていうところ結構好きなの。supernovaに似てると思わん?

あとね、「今は遠くに離れてる それでも生きていれば いつかは逢える でも傷つかぬように 嘘は繰り返される」というところも好き。kiroroの「長い間」に通じるものがあると思う。現実的な関係性の維持には嘘や虚構が必要なんだよ、やっぱり。

それからあのダラダラ繰り返されるサビですが、結局あれは、何に負けないのか、何から逃げ出さないのか、何を投げ出さないのか、何を信じぬくのかの解釈だと思う。誰かに勝つこと、現実から逃げ出さないこと、義務を投げ出さないこと、信念や他者を信じぬくことなどを示すのなら、これはかなりカッタルイ。でも、自分に負けないこと、自分から逃げ出さないこと、自分の命を投げ出さないこと、自分を信じぬくこと、こうやって置き換えると私には結構はげみになる。てか自分がどれだけ大事なんだよ、おまえ、って話だが^^;。

でも、他者との約束や社会の規範を守れないことよりも自分で決めたことを守れず、自分との信頼関係にヒビが入ることとか、そういう自分から逃げ出して自己欺瞞に走るとか、あげくどうせ自分はダメ人間なんだから人生なんてどうでもよくない?とか投げ出してしまうとか、これ全部ようするに今の私のことなんだけど、それってやっぱダメだと思うんだよねぇ。全然イケてないっつーか。

もうこれ以上自分を裏切ったらダメだと思いつつ落ちていく自分への応援歌やなぁと、たまに思い出したりする。

あ、でもニットは下手な手編みより高価なのがいいですけどね。
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なんかコメントせずに、遠回りにリンクなんてしてすいません。。。

ビートルズとネットウヨ(ハレンチ・フェミニズム外伝)

リーダーに入れているブログの記事です。これは本当に頭が下がった。私、結構ミーハーなウヨ的なものとかバックラッシュ的なものに安易に共感をしめしてしまうところがあるんだけど、それは自分の現状認識の甘さだなと反省した。

矛盾とか抑圧を感じているという部分で共感できても、その怒りや不満の矛先を誰に向けるのかって言うのは、重大な問題なのだよね、今さらですけど。それを自分よりより抑圧されている者へ、より安易に責任転嫁できる者へ向けることをフェミが認めては絶対イカンのですよ、やっぱり。

私の他人に対する甘さは、結局のところ自分に対する甘さだ。痛みに対する鈍さだ。

ここ名言です。
強者が得をするためのネオ・リベラリズムな権力の中に取り込まれた「平等」と、実際社会に存在している権力関係を解消するために叫ぶ「平等」を同じレベルで扱うのは、本当におかしなことだと思う。
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本日の「妖精」語録:「オレがホームページみたいなもんや」(全く意味不明。)

ご無沙汰しております。もう最近、夏バテで大変でございます。あらゆる角度からの現実逃避をはかっております。どうしよう。たぶん、この記事を投稿したらまたしばらくお休みしそうです。ごめんなさい。

顔の話。

前置きですが、現実の社会において、顔にあざや傷を持っているなど社会の尺度によって「醜い」とされる人々が現実的にハンディキャップを背負っていて、その差別があることを再認識した上で「障害」として社会に認知させ、ハンディキャップの解消を目指そうと活動している人々がいます。随分前にそういうサイト見たことがあるだけで具体的には知りません。そういう活動している人が自分たちの「障害」をなんと呼んでいたかすら忘れてしまいました。

今から私は顔について書くつもりですが、フィクションについて書くもので、こういった現実に顔についての問題を抱える人々のことを全く考慮していない文章になっていると思います。

では。

ちょっと前になるけれども、宝塚歌劇のファントムを見てきた。その後、これまたちょい前に映画化されたオペラ座の怪人のDVDを見た。そしてその後、嶽本野ばら(たけもとのばら)の世界の終わりという名の雑貨店を読んだ。

私はこのたびの機会まで実はオペラ座の怪人は読んだことも見たこともなくて、宝塚歌劇が初めてだったのだが、これはなかなか良かった。

宝塚を見るのはこれで3度目だけれども、これまでの2作は、主人公の織り成す物語はもちろんだが、個性的で魅力的な女性の脇キャラに感情的に惹きつけられた。今回のファントムも、いじわるなカルロッタが凄くいい味で笑いを誘う演技で役者として凄い演技力だなぁと思ったのだが、女性の描き方としてひっかかるものもあった。3作の中で主人公に感情移入したのは、ファントムが初めてだ。

映画や劇団四季のオペラ座の怪人の脚本(アンドリュー・ロイド=ウェバー)と宝塚の脚本(アーサー・コピット)はだいぶ違っていて、エリック(怪人)のキャラクターも少し違っている。

例えば、映画の方のエリックは親に愛された記憶がないが、宝塚のエリックは母親の愛情を覚えている。映画の方のエリックはマダム・ジリーという理解者を持っているがエリック自身は彼女に興味がない。宝塚のエリックには、現在はこれといった理解者はおらず、マダム・ジリーに近い存在なのが、実は彼の父であるジェラルド・キャリエールとなっている。映画のエリックは、クリスティーヌにそっくりの人形を部屋に置いているなど偏執的な独占欲を持っているが、宝塚のエリックは彼女とそっくりな自分の母の肖像画を持っていて、クリスティーヌに対する愛情も母性を求めているような側面がうかがえる。などなど。

総じて言うなら、映画の方は変態ストーカーっぽく、宝塚の方は純愛っぽいエリックと言えるだろうか。

醜いとされるエリックの顔も、映画のエリックはそれが原因で見世物小屋で動物のように扱われていた過去をもつ。彼にとってその顔が、世界が自分を拒絶し疎外する理由であり、自分が世界の道理を超越して行動することを正当化する根拠にもなっている。彼にとって顔(の傷)は彼自身である、と言ってよいように映画から感じた。

一方、宝塚のエリックにとっての顔(の傷)とは何か。宝塚のエリックは、幼少期を母に愛された記憶を持っており、見世物小屋にいた過去もない。彼が自分の顔の「醜さ」に気づいたのは自分で自分の顔を見たときであり、映画のエリックが見世物として他者からの嘲笑と不可分に自分の「醜さ」を認知していたのと異なり、宝塚のエリックは全く自分の主観によって「醜さ」を認知していたと言えるのではないか。また、これは私の感動した歌の歌詞の一節だが、宝塚ではエリックがクリスティーヌを思って歌う歌の中に「顔に隠された魂に触れてクリスティーヌ」というところがある。彼は仮面を被っているが仮面の下の顔もまた彼にとっては表層であり、その下に彼自身である魂があるということになる。ちなみにこの歌のタイトルは「私を産んだ母」であり、このあたりにクリスティーヌに対する愛情と母親に対する思慕の重なりが見える。

私が宝塚のエリックに非常に女性的なものを感じたのは、この仮面と顔と魂という三重の自分という感覚である。まぁこれは女性に限ったことではないのかもしれないけれど、例えば女性は、化粧やオシャレによって着飾った自分、それを全て洗い落とした素顔の自分というものを持っている。そして外見によって評価される自分を意識しているからこそ、素顔の醜さや加齢にともなう変化とは別の、そのような外見とは別次元に存在するような「本当の私」を持ってはいまいか?むしろ、本当の自分に近づくために化粧をするということはないか?もちろん変身願望で化粧をする人もいるだろうけれど。

外見は醜いけれど、その下にある私の本当の姿(は美しいってことだけど 笑)を恋焦がれる人に気づいて欲しい。これは相当乙女チックな感覚だと思うんだよね、エリック。そして、醜さの自己定義という部分も、親は自分を受け入れてくれるし、とりわけブスと蔑まれた経験があるわけではないけれど、それでも自分では外見にコンプレックスを抱き、しかし、その外見を含めて親のように絶対的な愛情でもって愛されたいという、より一般的な欲望へとつながっているように思う。

そして宝塚エリックと映画エリックの最大の違いであろう、父との関係。映画では、父の存在はないに等しい。宝塚では、母はエリックの顔をそもそも「醜い」とすら認知しなかった。「母」は、そもそも自分の子を美醜で判断するという基準を持ち合わせていない存在とも言える。しかし、父であるキャリエールは「不義の子」であることもその理由の一つではあるが、エリックの「醜さ」を受け入れることができず、これまで父と名乗ることができなかった。それが、物語の最後には、ついに彼を受け入れ自分の子と認め、あげく「死」によって強い信頼関係を築くことになる。

以下、個人的な経験の違いにもよると思うのだが、私にとっては、自分を外見で判断する(しかも化粧やファッションではなく、素顔の美醜で)のは「男」であり、「父」は私にとってもっとも身近な「男」である。「女」(=自分)の美醜についての評価は、「父」の評価がもっとも深く私のなかに植えつけられており、また私にとって「父」は私を外見で判断する(私を「女」として見ている)人として存在している。それはまた、「父」が私の「魂」(「本当の私」)を知らない存在であると言い換えることもできる。ここらへんの父親観とか、また「父」に対して、「女」ではなく(外見ではなく)「子」として見て欲しいという感覚らへん、全ての女性に共通するわけではないのは承知の上だが、私は「女性的な感覚だな」と思ったし、共感した。


それで嶽本野ばらの小説は全然ファントムと関係ないんだが、これには顔に痣(あざ)を持った少女というのが登場する。彼女はバレエの発表会を通じて、「痣を克服出来ないものとして、向き合うしか、なくな」ったと悟る。以後彼女は、自分がおしゃれをする望みを絶ち、さらに後に「ViVienne Westwoodのお洋服」と衝撃的な出会いを果たし、「ViVienne Westwoodのお洋服」は彼女にとって防御服になり、また魂そのものになっていく。さて、「ViVienne Westwoodのお洋服」に身を包んだ彼女は「痣を克服出来」ただろうか?

良し悪しは別にして、「ViVienne Westwoodのお洋服」は彼女にとって痣を克服するもの、痣を無いものにする為のものではないが、痣に付与された価値(世間の視線)をはねつける「武装」になった。

私自身は、自分の化粧や服のスタイルと自我を強く結びつけて考えたことはないのだが、着飾った自分こそが真の自分であるという感覚、素顔の上にあるもの(服や化粧、といってもこの少女は化粧で痣を隠すようなことはしていないが)と素顔の下にあるもの(魂、「本当の自分」)を結びつける感覚には、何か惹きつけられるものがあるし、宝塚エリックとの共通点のようなものを感じた。それは外見に関わるがゆえに、外見に固執し自分の素顔から逃避しているようにも見えるが、実は、素顔(外見)を超越した自分というものを信じ、追い求める行為なのではないかと思う。
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2006年08月17日
http://www.asahi.com/national/update/0817/TKY200608170041.html?ref=rss

普通の新聞の皇室関連のニュースで、皇族に「さま」をつけるというのがよく分からない。
私人なら「さん」、公人としてなら「妃」とかそういう位(置)を表すことばを名前の後につければいいんじゃない?実際、皇太子はそうなんだし。「さま」つけるなら、いっそ記事の文章全部、尊敬語で書けば。
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2006年08月10日
前に書いた「受動性の肯定」という記事を別のところで書いている日記にも載せたのだが、そこでいただいたコメントのやりとりの中で、自分が放った以下の表現にひっかかったので、自己正当化のためにさらに書いてみる。

>自分がしたくもない人に欲望されるのは意味がない以上にキモイ

自分で言っておいてなんだけど、結構酷い言い草である。本音と言えば本音だけれども、こんな言い方ってあるか、口に出さずともよいだろうが。誰かを欲望する気持ちをキモイとはなんだ、キモとは、って話ですよ。

で、以下は自己正当化です。

私だって言いたかないんですよ、こんなこと、という。
だってね、世の中には女に対して「嫌よ嫌よも好きのうち」という言説があるじゃないですか。「一部の(あるいは全部の)女はカマトトぶっているだけで、ホンネは○○されたがってるものなんだよ」という言説(○○は伏字じゃなくて、任意のことば)。そういう言説のある中で、「私○○されたがっているんです」って言うのは、でも「誰にでも、どんなふうにでも、○○されたいわけじゃない」ということばとセットじゃないと、いとも簡単に対象化されることを望んでいるとみなされちゃう。受動的でありたい(/あることを認める)と言うことと自分の意思を無視されても構わないということには、雲泥の差があるのに。

そうしないと自分が一個の人間であることが無視されてしまうのに、わざわざ自分に意思があることを主張すると、傲慢だと捉えられたり嫌な顔をされたりする。なぜなんだ。

そして、「そうよ私は欲望されたいの。あなたも誰でも私に欲望しちゃいなさい。(心の声:もちろん、選ぶのは私だけどね。)」と、なぜ言えない、私。自分が望む相手以外から欲望されることに意味がないのならば、それ以外の相手の欲望をただ無視すればよろし。なぜ、その欲望を無視できず、キモイと否定せずにはいられないのか。

私は、他者から欲望された自分の身体が、自分のコントロール下に置けなくなる状態を「知って」いる。他者からの欲望を、はねのけたり、打ち負かしたり、できない状況下にある自分の身体を「知って」いる。知らずとも生きるのに何の不都合もないこの「知識」のために、私は自分が自分の意思によって他者の欲望を却下したり、はねのけたりすることができる自分であることを、あまり正攻法ではない形で(正攻法があるのかどうかもしらないけれど)再学習せねばならなかった。でもそれは、他者の欲望をはねのけられない可能性を完全に考慮の外に置いていた自分に戻ることではない。

だから私は「自意識過剰」にも、仮定の他者をキモイとなじるのである。

まぁこれで正当化できるなら、欺瞞だよな。ふぅ。
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2006年08月04日
お邪魔したブログのブックマークからこんなブログ記事みつけた。



フェミニズム史についての認識の違いは後述するとして、ここ。
キモヲタたちが一般社会からハブられてきた歴史のなかで、“脱ヲタ”を最終目標とする従来の価値観から、キモヲタたちが勝手に自己肯定する“電波男”的方向へのシフトチェンジが起きた
「“脱ヲタ”を最終目標とする」というのは、"キモヲタ"をハブにしてきた「一般社会」にとっての「従来の価値観」であって、たとえキモヲタと自称する人がかつてこのような価値観を持っていたことがあったのだしても、それが「キモヲタの価値観」であったことは未だかつてないんじゃないかなぁ。シフトチェンジ(多分これはパラダイムシフトのことかな)が起きたというよりも、「キモヲタたちが勝手に自己肯定する」感覚をもつに至って初めて、自称としての"キモヲタ"が存在し得たのではないかと思う。

でも私が一番共感というか、関心したのはここ。
数学科の男子学生はフェミニズムの敵であり、現代の男女共同参画社会において数学嗜好は危険思想なのだ。
We are the DQN! ヒールはヒールらしく生きようではないか。
この方がフェミニズムが好きなのか嫌いなのかよく知らないのだが(つーか、どうでもいいんだろうな)、とりあえずフェミニズムが嫌いとか何故嫌いかの説明はなく、またフェミニズムが自分を嫌っているのだという根拠もほとんど本質的に異質であるというような説明しかないので、今ここで問題にされているのは彼とフェミニズム(女性)の対立や交わらなさではなく、ただ彼が自身を「嫌われ者」と同定することの説明にフェミニズム(のようなもの)が引き合いに出されているに過ぎない。

ここで彼のフェミニズム観を少し離れて読んでみると、客観的な経歴がどうであれ、彼の、世界(女性?)が自分を嫌っている、自分を中心にして考えることができないという感覚、またそのような自分を否定する価値観に振り回されている自分の卑屈さを振り払おうとする、「ヒールはヒールらしく生きようではないか」ということばには、かなり共感するところがある。ウーマン・リブの田中美津の「わかってもらおうとするのは乞食の心」という台詞にも通じるものがあるんではないか。こういう自己の存在を相対化せざるを得ない人間の語りには、ついついひきつけられる。いや、私にとっては元帝国大の理系男子院生なんて十分メイン歩いている人って感じだし、出会い系とかじゃむしろモテじゃねぇ?って思うけど、そういう位置にいる人であっても、自分が「普通」であることを疑わない人とは違う感性を持っていることに、一方的にではあるけれど親しみを感じた。

でもまぁ、フェミニズムに関しての知識はどこで得たのかかなり疑問。以下は、引用記事の面白さを半減させるツッコミなので蛇足なんですけど、よくある誤解だと思うんで一応。

たとえば日本の初期フェミニズムって、母性の強調によって「男女同権」を目指したのだから、“脱女性”運動ではなかったし、ウーマン・リブにしても全体的人間像を無性の者として描くことを拒み(つまり女/男になる以前の人間を想定するのは無意味)、エリート女性の批判なんかしてるわけだから、“脱女性”運動ではなかった。もちろん、フェミニズムが批判した性別役割分業を解体しようとするとき、それが個々の実践のレベルで"脱女性"の感覚(働いて男社会で競争するか、主婦になるかの選択を迫られる)を伴う場合があるのは否定しないが、それは社会にそのような生き方の選択肢が用意されていないという事実を示すものではあっても、フェミニズムが"脱女性"を目指していたことを示すものではない。
また、フェミニズムの起こりは基本的に人権思想に源をもっているのだから、既得権を持つ者にどう見えようと、フェミニズムが目指す女性の権利獲得は本来その女性の持つべき権利の獲得であって、他方に対して「有利」であることを目指すものではない。
あと「フェミニズムの敵である」ってことと「女性から忌避される」ってことは残念ながら、あんまり関係ない。

(追記)2006.08.15
以下のようなブクマコメントがついていたので、一応レス。
言及先の「女性が女性のまま(「女性らしく」ではない)」っていう部分をどう解釈するか、 ですな。
これは、引用記事の中で近年のフェミニズムについて
近年のフェミニズム展開においては、女性が男性化するのではなく、女性が女性のまま(「女性らしく」ではない)有利に生きられる社会を目指す方向が支持されるようになった。
と述べられていたことに関するものです。何度もしつこいですけど、これはフェミニズムにとって"近年の"展開ではないし、"有利"は目指してないのですが、女性が「女らしく」ではなく女性のまま、というのは、まさに田中美津の<ここにいる女>と<ここにいない女>の区別だよな、と思うと、結構分かってるジャン、あんた!的な部分。ああ、なんか偉そうな言い方しましたね、私。
でも「女/男らしさ」を社会的なものであると言うのみならず、生物学的性差も社会的構築物であるというジェンダー論者が「おんなであるところの<生身の私>」なんて言うのは、理解しにくくて当然だと思う。だけども、既に身体化された「おんなであること」(←生物学的か社会的かはどうでもいい)は「私」を構成しているのだから、ひたすら否定してもしょうがない。その「私」が「女らしさ」やそれと結びついた制度にからめとられず生きるってことが、フェミな生き方ってやつじゃないかなぁ。というわけです。仮に自分が否定しているものだとしても、それを染み付けた自分自身を愛する、そういう自分から出発するって大事なことだと思います。うん、大切なポイントついてくれてありがとう。
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うちの母親が電話してくると、大抵、どこそこで私と年頃の変わらぬ女性が殺された、カンキンされた、なんらかの被害にあったという事件を聞かされる。そして、最後に必ず「あんたも気をつけなさいよ」と言う。

なんかニュースとか見てて、「これがうちの子だったら」と心配になる思考回路は分からなくもないが、世の中、他に気にすべき事件があんたにはないのか、とか余計なお世話だけど思う。

だいたい、どうやって気をつけろと言うのだ。被害にあった女性たちが気をつけてなかったから被害にあったとでも本気で思ってはおるまい。どうせ、気をつけようがないか、もしくはそんなことに本気で気をつけていたら生活できないか、そういうような細やかな隙をついて犯罪は起こるんでないの?

それでも言わずにはいられない「母」の気持ちは分からないでもない。でもそうやって事件を聞かされるたびに自分が暴力の対象になりうる存在だと思い知らされるということは、どういう意味をもつか考えて欲しい。自分の身体が常に危険にさらされているなどと思いながら生きることが、いくばくかの防犯の可能性を鑑みても、人間にとって幸福をもたらすのかどうか、考えて欲しい。

ああ、うぜぇ。
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posted by piggy_fsite at 00:36 | Comment(5) | TrackBack(0) | 日記b_entry.gif
2006年08月03日
なんちゃってポエムです。
改行を繰り返してポエムっぽくしてみたという。

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