2006年07月13日
なんか最近、フェミニズムそのものよりも、フェミニズムとは何かとかフェミニストとはなんだとかそんな話ばかりして、なんかペラい自分に嫌気がさすけど、気になるからしょうがない、またそんな話です。

こないだ、就職した友人の職場が如何に性差別的な状況にあるかという話をメッセンジャーのチャットで教えてもらっていたんだが、話にひと段落着いたときに突然(私には"突然"に思えた)「だからね、やっぱりフェミニストにもっと頑張ってもらわなきゃって思った」と言い出して、かなりびっくりした。私は思わず「フェミニストって誰のこと?」と聞き返したら、彼女は「○○(私のこと)とか」と言うではないか。それで私は「フェミニズムって自分で活用してこそ意味があるもんなんだよ。あなたがフェミニストになればいいんだよ。」と返したのだけれども、彼女曰く「そんなこと言ったって、仕事に追われていっぱいいっぱいな状況で勉強なんかできないよ!」と。

なんだ、フェミニズムって「お勉強」だったんですか、ね?もし彼女が今自分が抱えている問題を解決しようと思っているなら、私は"友人として"一緒に頭をひねったり、必要な情報を集めることにやぶさかではないし、またアクションを起こすつもりが今のところ無いにしたって話に付き合うぐらいのことはできると思っている。だけど、「お勉強」するフェミニストとして、私に一体何ができると言うんだろう?自慢じゃないが、私は労働における性差別是正の実践を研究の題材にしたことなんてこれまで一度も無いし、私が自分のテーマについてせこせこ研究を重ねたところで、それが彼女の職場の改善に一体何の役に立つんだろうか?そりゃ、元気玉に力を分ける雑草くらいの間接的影響力はあるかもしれないけど?

たとえ「お勉強」に限らなくても、フェミニスト(と名乗る人たち)が頑張れば、世の中の性差別が改善されるなんて、そんなのどう考えたって無理だ。そりゃフェミニストじゃない「普通の女」には仕事も生活もイロイロあることでしょうよ。でもフェミニストだってそれだけやって飯食ってる人なんてほとんどいないわけで、同じように仕事とか生活とかイロイロ抱えているんだ。

もちろん、フェミニストの中でも私を含め学問の世界で生きることを目指している者は、「普通の人」が簡単には到達できない知を生産する役割があると思う。「普通の人」には簡単にアクセスできないような専門知を生み出そうとする以上、「普通の人」にはピンとこないようなこと、些細と思われることにも、研究者はこだわらなくてはならない。もはや「普通の人」の視点ではない視点で物事を見なくてはならなくなってくる。それは「普通の人」にできないことをやってくれ、という期待にこたえる為に必要なことのはずなのに、同時に、もはや「普通の人」ではないと批難される。「普通の女」の状況を繊細に理解しないと、どうしてフェミニストなのに、(「普通の女」であるところの)私の気持ちが分からないの、と言われる。

私は、(自分がフェミニストと名乗ることに意義があると思っているから、敢えて何度も言うけれども、)フェミニストである。でも同時に「普通の女」の一人である。研究者を目指す者の一人だけれども、また同時に「普通の人」の一人である。「普通の女」の条件が"フェミニストでないこと"でない限りは。「普通の人」の定義が"研究者ではないこと"でない限りは。老いも若いも金持ちも貧乏人も白人も黒人も「普通」を名乗れるなら、フェミニストだって研究者だって「普通」の一人だ。

だけど、一方で私は「普通の女」そのものではない。私は「普通の女」に過ぎないから、同じ女性であっても理解できないこともある。「普通の女」に過ぎないから、自分と自分にとって大切な友人たちの身に起きている問題を世界の問題より真っ先に考えてしまう。「普通の女」だから研究者を目指す者として期待されていることに振り回されたりする。「普通の女」だから、全ての「普通の女」に「普通の女」として認められることは不可能だ。「普通の女」だから、全ての女性にとって共感可能な存在になることも不可能だ。そういう意味で、私は「普通の女」の一人だけれども、「普通の女」そのものではない。

人によっては、フェミニストが女世界の救世主たるべきとか、全ての女の理解者であるべきとか、権力に対してどのような意味でも公正な人間であるべきとか、そんな風に考えているのではないか、と疑いたくなる言い方をする人がいるけど、それと同時に、フェミニストの主張は「普通の女」の意見としては取り上げられなかったり(フェミニストだからこういうことを言うのであって、「普通の女」はそんなこと思っていない、とか)、「普通の女」そのものではないことを批難されたりする。「普通の女」ではできないことをしろ、と言いつつ「普通の女」でないと否定する。

フェミニズムやフェミニストを批判するのに「普通の女」を引き合いに出すのは間違っていると思う。もし、ある「普通の女」があるフェミニストの主張することに一般性がないと感じて、それを証明しようとするならば、それを証明できるだけの十分な力を尽くしたころには、彼女も誰かに「普通の女」ではないと言われる立場になっているだろう。全ての女性は「普通の女」の一人であり、またかつ「普通の女」そのものではないのだから、フェミニズムやフェミニストの議論への批判は、「普通の女」の視点ではないという点から批判しても不毛である。何が欠落していて、それを感じる自分が社会の中のどのような位置(「普通」ではなく)付けにあり、またその欠落がどういう意味で問題があるのか、それを批判すべきだと思う。それは「普通」を笠にきるよりもずっと有意義で説得力ある批判になるはずだ。

(追記)
あ、でも、あることを前提化して疑問視しない人たちに対して、それ全然「普通」じゃないから!っていう批判はアリかなぁ。相手を相対化するための批判で、自分自身を相対化することに力点起きすぎると主張としては弱くなるよね。それと時には、感情的にぶちあげたいってときも結構あるし、私もよくやるから、あんま人のこと言えないのでした…。
posted by piggy_fsite at 03:05 | Comment(3) | TrackBack(1) | 日記b_entry.gif
この記事へのコメント
こんち。ロビです。先日はありがとう。今日はひょんなとこからやってきたよ。ブログ初体験でいろいろ世界の狭さを感じていまっす。

いつのまにフェミってお勉強になっちゃったんでしょうね。あたしなんぞお勉強の甘い汁だけ吸ってぐだぐだ暮らしておりますけれども。

ちょっと前に『まれバカ』とか読んだ時も思ったけど最近のフェミ批判の一つの流れに、どうせ普通の女には理解されないからね☆ていうのがある気がする。どういう人が言ってるかにもよるけど、一普通の女として、普通の女バカにすんなーとも思うけど、かしこい人ばっかしがフェミってなっちゃってるのも事実かなとも思う。あたしバカだからその辺つらいわー(笑)。

Posted by robierobie at 2006年07月17日 21:17
robierobieさん、コメントありがとうございます。
それからサイト再開、おめでとうございます^^
ネットの世界が狭いのか、フェミの世界が狭いのか(笑)、私もrobierobieさんをひょんなところで見かけたりしてますよー。

フェミが「お勉強」という部分を持っていてもいいんだけど、それが特定の人だけのものになるのは、やっぱなんとなくフェミっぽくない気がするねぇ。

私はフェミニズムの理論とか呼ばれているもののほとんどはあんまり理解できてなくて、私流でいいじゃんなどというヌルい人間だから、そのヌルさでもって多様性ってことにして、なんとなく満足してたりする…。運動家でも勉強家でもない、こんなのもいるよーと。
Posted by ピギフェミ at 2006年07月20日 19:45
はじめまして。フェミニストって、いま厳しいの?産廃物とか捨てる、アレでしょ。
前の職場でも、言われましたよ。施設から出るオムツは、一般ゴミじゃ出せないって。
Posted by 柴本マサキ at 2012年09月21日 00:30
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