2008年01月22日
今日、半フリーター就職活動中の友人と「学ぶ」ってなんだ?大学ってなんだ?という話をしていた。

私は今まで、企業社会で働く正社員の倫理や仕事こそが、もっとも生々しい現実、あるいは多くの人が現実と信じるべきものだと疑わない人たちをどこかで小馬鹿にしていたと思う。私は彼らのリアリティを知らないが、自分のリアリティが全体社会の真理ではないことを知っているということにおいては、彼らより「まし」なんだと思っていた。王道をまさに歩いているものには見えない側道からの風景を自分は知っているのだと思っていた。

それはたぶん、半分本当で半分はそうでも思わなければ自分の不安定な生活を正当化できないからだと思う。

だけどたぶん、「無知の知」はその「知」を知っていると思ったとき、もう無知の自負ではないのかもしれない。いや、哲学は専門外なので、小難しいことばを使うのはやぶへびか。

友人と話していて思ったのは、自分が研究者を志している云々を抜きにしても、もはや高等教育(大学教育)の必要性を否定する立場からものを考えられなくなっているということだ。

思い返せば、自分が「子ども」で「生徒」であったとき、どうして「大人」や「親」や「先生」は、昔「子ども」や「生徒」だったのに、私たち「子ども」の気持ちがわからないんだろう?と思っていた。アルバイトから社員に転身、採用された店長に対し、どうしてアルバイトスタッフの気持ちがわからないんだろうと思った。

少し大きくなって知識がついて、それは「親」や「大人」が「子ども」だったときの社会環境と今の私のそれが違うからだと結論づけた。そもそも社員に採用されるようなアルバイトスタッフの意欲・姿勢と平均的なアルバイトスタッフのそれが同じはずはないからだと結論づけた。

それにも一理あるかもしれないし、しかし人は、忘れたことにも気づかずに忘れてしまうことができるのだなと今は思う。言い返すことばや権利を持ち合わせていないために腹に溜めた憤怒を、どんなときにどんなことばで傷ついたのかとか、その不当性とか、そういう細かなことは都合よく忘れて、怒っていた・恨んでいたという事実だけを記憶して、あの頃の自分は何も知らずに大人を恨んでいたものよ、と今の自分のリアリティを上塗りし、何も忘れていないつもりで肝心のことを忘れることが人はできるものなのだと、今は思う。

高等教育(大学教育)を考えるとき、いずれ大学の外部において社会に資する役割を見出すだろう立場から大学を眺めていた自分はもう私の中にはいない。未熟で、青くて、何の知識もないながら、大学を卒業した後の自分の人生を思い描いて、あるいは思い描けなくて、そんな自分と照らし合わせながら、学校の制度や授業や教員の愚痴をこぼしたあの頃の自分は、もういない。何を忘れてしまったのかさえ、思い出せない。それを知るには、今度は学生から学ぶ他ない。

怖いのは、うっかり油断すると自分がまだ覚えていると思ってしまうことだ。自分の記憶に残っていることが経験の全部だと思ってしまうことだ。

忘れてはいけないけど、忘れないように努力したからといって、結局はそのときすでに忘れているってことを忘れてはいけない。

私はもうこっちがわの世界にいるんだということを知らなくてはいけない。

posted by piggy_fsite at 01:02 | Comment(0) | TrackBack(1) | 日記b_entry.gif
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負けても勝ち組w
Excerpt: てぃん★てぃんシゴきまくってもらって5諭吉くれるってどんだけww パチ屋行く前の軍資金集めの定番になってしまったw
Weblog: ドンパッチ
Tracked: 2008-02-16 16:50
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