2011年11月05日
ラジオで耳にした歌がなかなか良かったので、TSUTAYAでアルバムを借りてきた。曲や歌は気に入ったのだが、CDに添えられたブックレットを読んで、少し、ひっかかるような残念な気持ちになった。

そのブックレットには作曲した人とゲストの対談のようなものが書かれていたのだが、スーツを着たサラリーマンが宇宙人のように感じるという類のことが書いてあった。また、主婦の集団にも似たような感覚を覚えるとも。言外に彼らに対する蔑みが感じられて、その根底に、彼らの生き方に没個性や単調さを感じ取っているように思えた。

十代の頃はアイドルグループの一人ひとりに個性と魅力を感じたのに、彼/彼女らと年が離れるに従って同じ顔に見えてくることは私も経験済みである。自らが女子高生であったときは、「一人」で電車に乗っていたけれど、いざ制服を脱いでみると、電車に乗っている女子高生は集団にしか見えなくなることも。ちなみに女子高生であったときは、スーツを着たオジサン達は集団に見えたし、一人が行儀が悪ければ、オジサンみんなが行儀悪く見えたものだ。

しかし、制服やスーツでもない私服姿の者も、サラリーマンの中に紛れていたら目立つかもしれないが、繁華街であれば、人ごみの一部に過ぎない。いわんや、規格化されたCDが商品棚に並ぶ姿など、「みんな同じに見える」。

スーツを着たサラリーマンの人生がレールに乗ったものなのかと尋ねられれば、否とは言わない。売れるかどうか、食っていけるかどうかの保証もない音楽の世界で夢を追い求める方が難しいに決まってる。

個性とは、外的刺激に対する反応の差異のことだから、その差異によってレールなき道を歩くことになり、なおかつ諦めずにいる人を私は素直に尊敬する。だけれど、その差異の希少性が「尊い」のは、それが社会規範の許す範囲内に収まる場合で、なおかつ市場がそれに価値をつけるからであって、本来差異は希少であろうとなかろうと個性には変わりないのだ。

「尊くない」個性を理解しない者のもつ「尊い」個性を理解できない者が愚鈍であると決めつけるのは単なる無知ではなかろうか。自分の人生を生きていることに誇りは持てばいい。でも、そのために、自分が理解できない人生を歩む人々を引き合いに出すのは低俗じゃないか。

とは言いつつ、例えばこれ見よがしに他人の服装にケチをつける類の人は、大抵無難だがセンスの悪い人が多いとも思ったりもする。希少性の高い個性を持つ人々は、マジョリティに迫害されて、あるいは恨みつらみを抱えているのか。

ザマーミロ、お前たちにバカにされた俺が今ここにいるぜ!と吼えられない私が彼らに謙虚さを求めるのも、ルサンチマンの一種なのかもしれない。




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夏に、映画『ソーシャル・ネットワーク』を見た。単純に影響を受けて、Facebookを始めたのが、かれこれ3ヶ月ほど前か。

Twitterには完全に乗り遅れていたので、Facebookの短文に適した投稿方法に最初は戸惑った。しかも、友人として「つながった」人のニュースフィードの画面には、自分の投稿した記事がデカデカと載るようなので、書く内容も制限される。すなわち、普段知人と会い、まず一声で話し始めて差し支えのないような、棘のない、あるいは意味のないことばである。

Facebookに「近況」を入力をしようとすると「今なにしてる?」と訊いてくるとおり、今まさにしていること、感じていることを書くのに相応しく、考えていることを書くには適さないツールだと気づいた。

Facebookに短くとりとめもないことばを投稿していると、最初は思考停止に陥るのではないかと訝しんだが(いや、実際、思考停止にはなりつつあるのかもしれないが、それはともかく)、不思議に善良な気持ちになってくることに気づいた。「友人」の誰が読んでも差し支えないように、政治的なことは書かない、性的なことも書かない、批判的なことも書かない。それらを取り除き、生活の中の書くに値する事柄を探すのは「良かった探し」に似ている。

私の生活から怒りや悲しみを取り除くと、こんなに平和で幸せな人生を送っている人間がいるのかと改めて思う。耳障りのよいことばばかりを吐いていると、善人ぶっているようで後ろめたくもあるが、そのような人間にもなり得る自分を発見したような妙な気持ちがする。


※ Facebookはスマートフォンの普及以前から存在するが、iphoneの普及によって「現在地」とは現住所のことではなく、今まさに私が立っているこの地点のことを示し、また「今」とは現在のことではなく、今まさにこの瞬間のことを指し示す(つまりは点の粒が小さくなった)ように感じる。Facebookはそういう感覚にかなりフィットするツールなのだと思う。


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2009年02月26日
新しく新入社員が入ってくるにあたって職場の案内を頼まれた。ついでのように「既婚者だから変な気を起こさないように」。

それを冗談だと思えるなんて。

笑って「失礼なぁ」と言っている自分が虚しい。
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2009年02月25日
性別役割分業を批判する立場にいながらも、「専業主婦」を安易に否定できない理由はいくつかあるだろうけれども、一つは「専業主婦」の否定が、育児や家内労働(以下、再生産労働)の価値を矮小化し、それが生身の母を敵に回してしまうのみならず、市場労働中心の価値規範に絡めとられてしまいがちなことにあると思う。

フェミニズムはよく誤解されているが、女性に男性と同様の働き方を推奨する思想ではない。とにかく働いて賃労働の中に自分の生きがいを見つけなさい、それこそが自立で「自己実現」なのだなどど主張するフェミニストはまずいないだろう。

とはいえ、現在の実社会の中で、家父長制や性別役割分業に回収されることなく、それでいてマージナルな領域にも価値を認めるような生き方を模索することは、並大抵のことではない。

教壇に立って、「専業主婦」を夢見る女子大生と対峙するとき、再生産労働やその他の賃金に還元されないマージナルな活動の価値を低減させることなく、そのような生き方を女性の役割として安易に選択あるいは受け入れることの危険性をどのように説いたらいいのか悩む。

おそらく、これは私がフェミニストだからというわけではなく、社会で活躍することを学生に期待する多くの教員は、「楽だから」とか「働きたくないから」という理由で「専業主婦」になりたがる学生に対して何某かのコメントをしたいと思いながらも、それが押し付けになることを怖れて、ニュートラルな意見を言おうと苦心しているように思う。

確かに、天職を見つけるだとか仕事で自己実現するなんていうことは、かなり怪しげだし、就職できない学生に「仕事をせねば人にあらず」と思わせるのはおかしい。

それでも、大学は学生を卒業後に当然、社会に資する仕事につく者として扱うべきだと私は思う。

大学などの教育機関の外側では、女性はいたるところで「働かない」という選択肢をちらつかせられて、働く・働き続けるということを主体的に選ばなくてはならない。そしてその選択に理由を求められることになる。ずっと子ども扱いを受けてきた学生時代を終え仕事に就き、嫌なこともあるけれど自分の力を発揮する場を得られれば、仕事ほど楽しいものはない。それなのに、何故働くのか・頑張るのかを暗に明に問われるのでは、やりきれない。むろん、置かれる状況は就職先によっても異なるだろうが。

そのような女性をとりまく社会的状況の中で、大学の教員が女性の働く・働かないという選択についてニュートラルであるべきだろうか?

女性が市場労働で活躍することの困難が男性より大きいのだとしても、それをもって「専業主婦」を避難場所として選択することを、社会に人材を輩出すること使命とする教育機関が留保なしに認めるべきだろうか?

一方で、女性は子育てや家事に幸せを見出すのが当然という観念が残存しているのに、他方は働くことに幸せを見出すのが当然とは言い切らないで、どちらとも言えるね、では、仕事で頑張る女性や仕事と家事の両立に苦心する女性の立つ瀬がない。

今の社会で、女性を「働いて当然」として扱えるのは誰なのか、考えてみれば、大学の存在は大きい。賃労働に必ず就けとは言わない。しかし、少なくとも社会に資する仕事、私(わたくし)に向かうのではなく社会に向かう活動に参与するのは、社会構成員として、また大学教育まで受けた人間として当然のことだとして学生に接するべきではないか。

最高学府の女子学生さえ、クリントン氏の活躍を特別な「強さ」と捉える教育の現状を日本は恥じるべきだと思う。
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2008年02月10日

【派閥】
政党その他の集団の内部において、出身や縁故、特殊な利権などによって結びついた排他的な集まり。
三省堂提供「大辞林 第二版」より


うちの職場にも昔はいくつかの派閥があったらしい。今残っているのは、1つだけなので言ってみれば仲良しグループのようなものなのだが、人事などに口が利くという力のために、一線を画している。

派閥があればアンチ派閥がある。

横暴な力を行使しているのは派閥の方なのだから、なんにせよ、彼らの方に問題があるというのはわかっているのだけれど、個人的には普通の気のよい人々なので、彼らと仲良くすることで「派閥のイヌ」になったのかと疑いの目を向けてくるアンチ派閥の人々を時々見当違いに恨みたくなる。

実際にしている仕事の内容や出来ではなく、誰と仲良くしているかなんてことで、仕事上の関係をギクシャクさせるなんて子どもじゃないか。

そしてそれに振り回されている私も、子どもだ。みんなと距離を置いて付き合えばいいものを、八方美人に誰とでも仲良くしようとするからこんなことになるのだ。
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派遣で事務をしている方の大学で、研修を受けた。

心理的に問題を抱える学生や学習障害をもつ学生への対応に関する研修会で、複雑な気分だった。

自分も軽度ながら学習障害と言われたこともあるし、それがないにしても、勉強に打ち込めないことに悩んでいるとして、手を差し伸べてくれる人・機関が大学内にあるとしたら、それは本当に救いになると思うのだ。「希死念慮」というらしいが、家族と離れて多感な大学生活の中で生きる希望を見失ってしまったとき、話す相手がいることがどれだけ救いになるかと思うのだ。

だけれども、大学で学ぶことは決して「人として学ばなければならないこと」なわけではない。なんとなく入った大学をなんとなく辞めてしまったとしても、それ自体はそもそも問題とは言えないはずだ。大学で友だちができない、授業に出る気にならない、そういう事態のどこまで大学が<教育として>関わるべきなのだろうか。学生のわがままに過ぎないと言いたいのではない。大学に適応することになど、いかほどの意味もないと言いたいのだ。

そもそも、身体障害に関しては、いまだ多くの大学が建物や立地によって潜在的に入学を拒否し、あるいは入学時点でどのようなサポートが必要なのかを本人自身に問う。つまりは、大学が「正常」と判断する範疇を超えている学生については、学修にともなうリスクは学生の自己責任で、主張すればそれに応じる心構えはある、という程度のものに過ぎないだろう。

それなのに、精神障害や学習障害など、本人すら自覚のない症状に、数時間の研修を受けたとて、素人同然の教職員がどのように対応できると言うのか。多動で教室で授業を受けることのできない学生のサポートなど、サポート体制を事前に用意しておかなくては、教員が個人的に対応できる範疇を超えている。まして、一体どの学生がそのような「病」を抱えているのかについては、守秘義務によって教員には知らされないのだ。

学生相談室の臨床心理士の先生方は、障害ついては紹介してくれるが、どちらかと言えば、素人が対処できるものではないことを匂わせる。しかし、研修会に参加していない教職員を闇に、障害に理解のない者・偏見を持つ者のような言い方をするので、個々人に障害への理解を踏まえた学生対応を望むような態度でもある。学生との関わり方や発言には、部署や立場によって制約があることをご存じないのか、わかった上での啓蒙活動なのかわからないが、学生相談室以外の具体的なサポートに関わる制度やシステムについては、事例紹介すらない。

たかが、90分の研修会に私が求めすぎなのだろうか。
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前の記事の続きで大学ってなんなんだという話を何度か書こうとしているのだけれど、何度書いても「当たり前」のことしか書けなくて消してしまう。

言いたいことは、

1)大学が就職のための実学指向になったとしたら、社会における大学の存在意義はなくなる。なぜなら、大学は既存の社会の「知」を超越していくことに本来の目的があるから。

2)高校までの勉強ができるかできないかは大学で学ぶことに向いているかどうかは関係ない。高校は問題を与え解く勉強をさせるところ、大学は自分で問題を見つけさせ、探求の喜びを知るチャンスを与えるところ。探求のレベルは本質的問題ではない。

3)自主的に学ばない者に何も与えないような大学教育が、就職の際の要件になるのは企業の怠慢。


だけど、今どきこういうことを言うと、60オーバーの大学教授にも「古い」と言われる。

現実的には、モラトリアムどころか漠然とした「知」への好奇心もない学生、学習障害をもつ学生が増え、彼らをほっておくことが許されない状況になりつつあるし、就職率が大学の人気を左右し、常識を疑う前に常識を教えることが大学の期待される役割となりつつある。

ただ、それらに応えることが、目の前の危機に対応するために必要なのは理解できても、その結果、大学でしか学べないことが学べなくなり、大学にしかできなかったことができなくなったりする時、それが本当に「正解」なのか、と疑問に思うのだ。
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2008年01月22日
今日、半フリーター就職活動中の友人と「学ぶ」ってなんだ?大学ってなんだ?という話をしていた。

私は今まで、企業社会で働く正社員の倫理や仕事こそが、もっとも生々しい現実、あるいは多くの人が現実と信じるべきものだと疑わない人たちをどこかで小馬鹿にしていたと思う。私は彼らのリアリティを知らないが、自分のリアリティが全体社会の真理ではないことを知っているということにおいては、彼らより「まし」なんだと思っていた。王道をまさに歩いているものには見えない側道からの風景を自分は知っているのだと思っていた。

それはたぶん、半分本当で半分はそうでも思わなければ自分の不安定な生活を正当化できないからだと思う。

だけどたぶん、「無知の知」はその「知」を知っていると思ったとき、もう無知の自負ではないのかもしれない。いや、哲学は専門外なので、小難しいことばを使うのはやぶへびか。

友人と話していて思ったのは、自分が研究者を志している云々を抜きにしても、もはや高等教育(大学教育)の必要性を否定する立場からものを考えられなくなっているということだ。

思い返せば、自分が「子ども」で「生徒」であったとき、どうして「大人」や「親」や「先生」は、昔「子ども」や「生徒」だったのに、私たち「子ども」の気持ちがわからないんだろう?と思っていた。アルバイトから社員に転身、採用された店長に対し、どうしてアルバイトスタッフの気持ちがわからないんだろうと思った。

少し大きくなって知識がついて、それは「親」や「大人」が「子ども」だったときの社会環境と今の私のそれが違うからだと結論づけた。そもそも社員に採用されるようなアルバイトスタッフの意欲・姿勢と平均的なアルバイトスタッフのそれが同じはずはないからだと結論づけた。

それにも一理あるかもしれないし、しかし人は、忘れたことにも気づかずに忘れてしまうことができるのだなと今は思う。言い返すことばや権利を持ち合わせていないために腹に溜めた憤怒を、どんなときにどんなことばで傷ついたのかとか、その不当性とか、そういう細かなことは都合よく忘れて、怒っていた・恨んでいたという事実だけを記憶して、あの頃の自分は何も知らずに大人を恨んでいたものよ、と今の自分のリアリティを上塗りし、何も忘れていないつもりで肝心のことを忘れることが人はできるものなのだと、今は思う。

高等教育(大学教育)を考えるとき、いずれ大学の外部において社会に資する役割を見出すだろう立場から大学を眺めていた自分はもう私の中にはいない。未熟で、青くて、何の知識もないながら、大学を卒業した後の自分の人生を思い描いて、あるいは思い描けなくて、そんな自分と照らし合わせながら、学校の制度や授業や教員の愚痴をこぼしたあの頃の自分は、もういない。何を忘れてしまったのかさえ、思い出せない。それを知るには、今度は学生から学ぶ他ない。

怖いのは、うっかり油断すると自分がまだ覚えていると思ってしまうことだ。自分の記憶に残っていることが経験の全部だと思ってしまうことだ。

忘れてはいけないけど、忘れないように努力したからといって、結局はそのときすでに忘れているってことを忘れてはいけない。

私はもうこっちがわの世界にいるんだということを知らなくてはいけない。

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2007年10月25日
フィッシング目的のコメントがコンスタントに入ってきていて、それを削除するのが地味に面倒なので、過去の記事に関してはコメント不可(但し、既に投稿済みのものは表示)とし、最新の記事に関しては承認制でコメント可という設定にしようと思います。

すべての記事に対して一括で設定を変更する方法がわからないので、過去記事の設定変更はチマチマとやっていくことになると思います。

承認制になると、コメントは私が確認するまで公開されませんが、確認後も公開を希望しないコメントについては、従来通りMsgからお願いいたします。


せっかく更新なので日記を…。

昨日、今日とペーパークラフトでちまちまとジャックオーランタンを作っている。フレッシュネスバーガーのサイトにあるやつ。星のシールを買ってきて貼ってみたり、マニキュアでキラキラにしてみたり。

仕事中も集中力が途切れたら気晴らしついでに作る。もともと職場のカウンターの飾りのために作っているのだから仕事中にしても問題ないと思うけれど、遊んでいるように見られたくないという気持ちが最近薄れてきたのもある。それだけ、職場になじんできたというか厚顔になってきたんだろう。だいたい、専任の人がぴーちくぱーちくおしゃべりしている傍らで(私は仕事中の私語が嫌いなのだ)、派遣の私が昼休みも削って働いているのに、それで残業していると「どうせ家に帰ったってすることないんでしょ」なんて嫌味を言われれば、バカバカしくもなるってもんじゃないか。(この場合の「すること」というのは、つまりデートとか子育てとかのこと)

いずれトラブルになることが予想されているのに、何を指摘しても「とりあえず今までどおりで」と返されることにも飽きてきた。

まるで私の人生みたいだ。

それに比べれば、ジャックオーランタン作りは楽しい。今晩はネットでニュースを見ながら、4つくらい完成した。

動画で配信されているニュースは少ないのでチャンネルを変えても大抵同じニュースを何度も見ることになる。疲れた頭にはそれぐらいがちょうどいいのだが、何度見ても本当のところは何も理解していない。たとえば、小沢さんが給油に反対するかわりに、ISAFに参加したがっている(もちろん自分が、ではない)のは今日知ったが、ISAFに参加するということが給油活動とどう違うのかは繰り返されるニュースだけではよくわからない。

ヨーロッパで移民の少女(三重のマイノリティ)が男に電車の中で突然殴られたというニュースも、「どんなにか恐ろしかったろう」と涙を流しつつ、私は何も理解していないんだろうと思う。

脳内フリーズが直らない。
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2007年10月21日
どもども。

久々にお一人様ファイターの方も更新しました。


今日は、スキャンダルというか、興味本位なこと書きます。

元事務次官が受けた接待の件で、色々ニュースが流れている件について。

このニュースを見て、ちょっと前に彼と防衛大臣だった小池さんが人事でもめてたとき、そのニュースを取り上げていた「やしきたかじんのそこまで言って委員会」(だったと思う。多分…)で宮崎さんが、どちらかと言えば守屋寄りの世論に対して小池さんを擁護するっぽく、「これには大きなスキャンダルが隠されている」みたいな発言をしていたのを思い出した。

え、なになに〜と思った瞬間CMに移って、CM明けはその話に全く触れなかったから、凄く気になってたんだけど、TV持ってないし(その時は友人の家で見ていた)、宮崎さんのコラムとかそういうの載っている雑誌も知らないし(てかそこまで思いつかなかった)、煮え切らないまま、なんとなく忘れていたのだ。

この事件自体には、小池さんが辞めるほどのことをしたのか、とか、守屋さんの人相ってどうなの、という程度の関心しかなかったし。

今になって、宮崎さんが言っていたのはこのことかーって、やっと腑に落ちた気分だ。その番組について、何か言っている記事はないかと探したけれど、あまり見つけられなかった。宮崎さんが、そのスキャンダルについて主張していたのは、周知のことだったのだろうか。私が知らないだけで、TVでは「ほら言ったでしょ〜」みたいなこと、今、宮崎さんが言ってるのかな。


よくわからないのは、なぜあのとき宮崎さんの発言はCMで潰れちゃったのか。時期尚早だったのだとしたら、今どうして・どうやって明るみに出るに至ったのか。そういうこと、どっかでとりあげてたりするんでしょうか。

本当に、小池さんなり宮崎さんなりがあの時それを知っていたのだとしたら、他にも知ってた人はたくさんいるはずで、それを知らんぷりしてた人は、なんで知らんぷりしてたんでしょうか。

テロ特措法の制定に彼が必要だから見ないふりをしていたんだとしたら、これは守屋さん、あるいは防衛庁だけの問題じゃなくて、当時の小泉内閣の問題でもあるんじゃないかなーと思うわけなんですが。

いや、守屋さんが不正していたからすなわちテロ特措法やテロ特措法によって実現する活動も否定されるべきって言いたいんじゃないよ。テロ特措法とか給油活動とかそういうのは、それ自体で是非を審議すればよいとは思ってる。でも、自衛官が利害関係のある人と懇意になることの倫理(つーかこれは規則違反だったっけ?)が問われるならば、政治家が法案通すために誰かの不正を先送りにするっていうことの倫理も問われるべきなんじゃないのかなと思う。だって、法案通った後でお前不正してたろ、もう辞めろって言ったって、そりゃ見方によっては、利用するだけして捨てたってことになるし、俺のおかげでこの法案通ったんだもんね、お上は俺に文句は言えまい的な増長が起こっても不思議じゃないじゃん。

ようするにバレないって思ってたってことなのか。でもバレた今、その尻拭いのようなことに国会の時間を割かれることはもったいないというか、早々に処罰せずにいた者の罪なんじゃないかと思ったりする。いや、不正が明るみに出ることはもちろん良いことなんですけど。

「証人喚問」とかテロ特措法・給油活動継続への見直しが、私の言っている「見なかったふりした責任とりなさいよ」って主張の一つの形なんだろうか。いやあれは、ガロンがどうのっていう法律が成立する根拠とか前提になるデータに疑わしい点があったから、法律の是非を問いなおそうってことだよね。やっぱ、よくわからん、政治。


(追記)
よく考えたら、宮崎さんが発言した番組は生放送番組ではないので、「スキャンダルがある」という発言をごまかすためにCMに移ったというわけじゃないですよね。それについて詳しく報道するつもりが番組あるは宮崎さんになかったとしても、わざと宮崎さんの発言を放映したはず。
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2007年10月04日
 今日…日付が変わったので昨日になるが、通勤にタクシーを使った。相乗りすると160円なのでバスを利用するのとほとんど変わらないため、遅刻しそうになったときは時々利用している。

 おそらく通勤に使うタクシーでは初めてだと思うのだが、今日の運転手さんは女性だった。それで、ふと気になったことがる。というのは、彼女がラジオをつけていなかったということである。朝の通勤時間にタクシーに乗ると、これまでなら10人が10人、同じ番組を聴いていた。番組名やタレントの名前はわからないが、おそらくAMで、関西弁をしゃべる男性タレントが時事ネタについていかにも「おじさん」好みのコメントをし、若そうな女の人がそれに合いの手を入れているやつだ。聞いてきて楽しいわけでもないが、それが「タクシーらしい番組」と私の頭に刷り込まれているので、違和感を覚えたことはない。

 今日の運転手さんは、若い女性だったので、もし自分の好みで番組を選ぶのなら(そんな番組が朝やっているのかは知らないけれど)、音楽番組なんかを聴いていてもおかしくないだろうと思った。しかし、タクシーに乗って、洋楽とかJ−POPの音楽が流れているなんていうのは、あまり経験したことがないし、きっと「タクシーらしくない」と思うだろう。かといって例のAM番組を聞いていたとしても、それはそれで「若い女性が、なぜ?」と思ったかもしれない。

 ラジオをかけない運転手は男性でもいるから、別に葛藤の末にラジオをかけないことにしたってわけではないだろうけれど、他の乗り物の運転手に比べてタクシーの運転手というのは、(少なくともわたしにとって)ジェンダーの色濃い職業なのだなぁと感じた。
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 今日は一日コピーをしていた。捺印のある文書を含む300頁以上の原本があり、それのコピーを作成し、かつ通し番号をふるという作業。色々考えた末、ページ番号だけ印字した白紙を印刷して、それに原本を複写するのが一番早いだろうという結論に達した。同業者もそのようにしているらしいと聞いたし。

 朝一でその仕事を頼まれたときは、昼過ぎには終わるだろうと思っていたのだが、複写を17部用意しなければならないと聞いて、これは一日作業だと覚悟。番号入りの複写を用意し、それをコピーし残りの16部を作成しようとしたところで、2頁不要な書類が混ざっていたことが発覚し、最初からやり直しを迫られた。

 とりあえず、コピーだけでもなんとか手際のよい方法がないものかとコピー機のマニュアルを開いたら、なんと、なんと…うちのコピー機には自動でページ番号を印字する機能がついているではないか!これなら、単に原本をコピーすればいいだけの話だ。

 なんてことだと思った。2時過ぎまでの私の仕事はなんだったんだという脱力感。ページ番号だけの白紙を印刷したり、コピー機の印刷面に合せて、用紙をひっくりかえしたり、コピー機に通したときに紙詰まりやシワにならないように、紙を伸ばしたり、とか他にもとにかくすごく面倒だったことが全部いらない作業になったわけだ。てゆうか、私いらねぇじゃん。今ドキの末端事務員に求められている能力というのは、何かを丁寧に仕上げるとか精緻なクオリティを提供できる注意力とかいうよりも、こういう機械の機能を知り尽くし使いこなす能力なのだなぁとしみじみ実感した。

 それで思ったが、これの一個前の記事で、「早く簡単にできる」ことがなんぼのもんじゃいと言ってた私はバカだったということ。コピー機様様だ。これのおかけで課長の明日の出張に書類が間に合った。やっぱり、煩雑な作業が「早く簡単にできる」ことはスゴイ。時間の短縮になるだけでなく、簡単だからミスを減らせるし、それを確認するストレスも減らせる。それが効率化ってことなんだろう。いや、本当に今さらなんだけど。

 まぁ、しつこく言い訳がましいことを言わせてもらえば、しかしそれでも「早く簡単にできる」ことの有用性は、何を作りたいのかという目的がハッキリしているときにこそ/だけ意味をもつと思う。機械やアプリケーションソフトに限ったことではなく、われわれは今、膨大な機能(ファンクション)を抱えており、今自分が利用しうる機能にどのようなものがあるのか、それをいちいち確認し把握している余裕がない。何か目的を持って、初めてその手段が自分の手元にあることに気づく。あらかじめ機能を把握していないと、今回の私のように無駄な過程を踏むことになるが、目的を持つ前に膨大な機能を目の当たりにしても、結局機能におぼれるだけで、そこから目的を見出すことはできないように思う。「できること」から「やりたいこと」のビジョンが生まれない、というわけではないけれど、手段を持っているということよりも、誰に何を伝えたいのかとか、何をしたいのか、どんなものが欲しいのか、そういうもののビジョンを明確に持っている人こそが何かを成し遂げる人なんじゃないかと思う。

 …まぁこれは『リキッドモダニティ』という本で読んだことを、今日の仕事を通じて思い出しただけなんですが。

 今の私って、ちょっとHTML分かります、ちょっとワード・エクセル得意です、ちょっと文章校正できます、ちょっと統計処理できます、って「ちょっとほにゃらら」をただ蓄積してるだけで、肝心の人生の目標とか何をしたいかとかそんなんがてんで曖昧だ。私の「ちょっとほにゃらら」は、コピー機みたいに誰かが目的をもって私を利用して初めて意味のあることで、そうでなければあってもなくてもどちらでもいいことなんだと思う。私はコピー機ではなく人間になりたい。
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2007年09月29日
manikyua.bmp
新しいものとか傾向を受け入れられなくなってくると「年」を意識する。

職場で、みんなが「びすた、びすた」と騒いでいるので、どんなものかなぁとサイトを見てみた。名前の通り、ビジュアルの面で革新的なのは分かる。まるでSFみたいだ。実際、入手したら「すげーっ!!」と興奮しながら、いじりまくるだろうと思う。でも、「できることが広がる」という感じがあんまりしない。

同じようにおふぃす2007についてもデモのフラッシュを見てみた。エクセルは、数値データを「見せる」データに加工することに弱い感じがしていたので、革新的な感じはする。

 一方、パワポは…メニューがリボンに変わった以外「できること」が増えた感じがやっぱりしない。図解のテンプレの適用がすばやくできるの(スマートアート)とか便利なのは分かるけど、センスと手間をかける時間があれば、今までのバージョンで作成できるような気がする。あ、ビジネスの世界は時間なんてないのか。

 センスについてはよく分かんないけど、「こんな美しいプレゼンが簡単に!」みたいなデモを見ていると、これがあれば、デザイナーいらずだなぁと思う半面、結局、テンプレ選ぶことに疲れちゃいそうな…。大体、図解なんて要素の関係を論理的に理解できていないから、「美しい」だけの、「図」ならぬ「絵」を描いてるだけのやつ、今でさえザラじゃないか。

 パワポはプレゼンソフトなんだから箇条書きのテキストを簡単に図に変換し、レイアウトやデザイン、色の変更がすばやくできるスマートアート機能は確かに革新的なのだろうと思うのだが、個人的にパワポは半分お絵かきソフトとしてポップ作るのに使っていたため、描画の限界がほとんど変わらないのが、残念に思う。
(今日、あげている絵はそれで久々パワポで描いた絵です。もちろん旧バージョンのですが。)
 
 ワードに至っては、あんなもんが文書作成ソフトだと言うなら、テキストはメモ帳で書くよと思った。いや、今も半分そうなんだけど。だって、文書作成ソフトじゃなくて、印刷物作成ソフトって感じなんだもん。でも、それが世の中のニーズなんだろうなぁ。


以下は"OL"ピギフェミの戯言
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2007年09月17日
 こうも世の中の動きに無関心なままに人って生きられるものなのね…というぐらい、まったくニュースや世間の状勢から目をそらしてしまっている今日この頃。なんとなく「頑張っているつもり」ではあるけれど、世の中の動きに無関心でも通用する程度のことしかしていないというのは、明白な事実。

 現職首相が辞任して総裁選が始まるうんぬんも知人から聞かされて知る始末。

 そして久々にブログ書いてみようかなーとマイブログのトップページを開き、「いやいやまてよ、やはりここは例のお方の記事にまず目を通してから」とブックマークブロガーのサイトにアクセスしてみたら、なんと休止中…。どの題材についても押さえるべきポイントが的確で、思考のよりどころになる記事をいつも提供してくれていたブログだったので、とてもショック。てゆうか、随分前に休止していたのに、それに今頃気づくなんて、自分が「考える」って行為をどんだけ放棄していたかを改めて気づいてそれもショック。
 とりあえず、閉鎖でなくて休止だからログ閲覧できるのが救いだし、そうして残してくれていることに感謝です。
 

 さて、もともと書きたかったのは、総裁選で麻の方がアキバで支持率100%とか言うニュースを見たから。ホント?ホントなの??

 彼がプライベートでマンガ好きってことは知ってるけど、実際政治活動の中にそれをどう活かしてるのかをあんまり知らないので、なんで彼が人気なのかよく分かんないんだよね。公式ページを見てみると、日本の伝統文化とかいわゆるメインカルチャーとマンガを同列に扱おうとしているようなことが書かれていたわけなんだが、オタがそれを支持しているっていうのは解せない。

 こういうのは古い考え方らしいけど、私にとってサブカルチャーはやっぱりメインカルチャーのカウンター(抵抗)であって欲しくって、そうでなくてもやっぱりサブであることを捨てたら魅力半減と思うのだ。メインカルチャー扱いを受け、総裁だか首相だかに公に支持されるサブカルチャーなんて屈辱以外のなんであろう?首相お気に入りのロック歌手にロック精神があることを疑うのと同じじゃね?

 自分と同じモノが好きな相手に、それが権力者であろうとなかろうと好感を持つのは世の常としても、それだけで内閣を任せるに足る人物と認めてしまうほど、都会のオタクが政治に暗いとは思えない。一体どういう調査の仕方で支持率100%なんて出たんだ。たとえノンポリオタでも、麻の方は、自尊心以外の何の利益ももたらしてくれなさそうだし。これ、私の誤解かな。実は、マンガ/オタ文化で培ったラディカルな力を政治に応用する実践力があったり、もしくはオタ的思考回路(というものが存在するとして)がコミュニケーションや労働の形態の本流を支えるものになるような教育改革を志していたりするんだろうか?

 泉の方のときから思っていたことだけど、今どき(←これ死語?)のコトバとか流行語、情感的なコトバで人々に訴えかけるのは結構なこと。だけど、中身あっての話だろうと思う。ちょっとは、まじめに語れ、論理的に語れ。難しいコトバで煙に巻かれるのはゴメンだけど、それと流行語を撒き散らして煙に巻くのと何の違いがあるんだ。反芻(はんすう)してみて意味が分かるのなら、こむずかしい方が私にとってはマシ。国であれ党であれトップが道化である必要なんてないんだから、まともな議論・答弁のできる人をお願いしたい。
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2007年04月24日
うむ、やはり風邪ひいたみたいだ。

金曜からくしゃみが出ていたのだが、くしゃみ風邪というのはあんまり経験したことがなかったので、部屋が汚過ぎて埃が舞っているせいだろうと思っていた。今日、仕事中もくしゃみが止まらないので、帰りに鼻炎用の薬を買ってきたのだが、家に常備してある風邪薬とどちらを飲むか迷う。薬を買うためにスーパーに寄ったら、雨が降り出して濡れてしまい、なんとなく風邪っぽい気になってきたのだ。悪寒もするし、なんとなく頭もダルい。

とりあえず熱を計ってみている。風呂に入ってしまってから計ってもいいものだろうか?食事してしばらく経ったからいいのかな?

こういうことを考えること自体が面倒だ。

こんなとき、気のよくつく優しいカレシなどが、「大丈夫〜?」などと言って、お粥を作ってくれたり、かいがいしく薬を飲ませてくれたり、ついでにこの汚い部屋の掃除とか洗濯とかしてくれて、寝つくまで手をつないでくれたら、漫画みたいで楽しいのに。きっと一発で治るのにな〜と思って体温計を見たら、平熱以下だ。

なんだか、しゃくだから風邪薬を飲んでやれ。
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思い出話。

私が高校生だったころ、「ちょべりば」などと並び、コギャル用語として「MK5(えむけーふぁいぶ)」というのが、あった。実際周囲のコギャルが使っているのは見たことがなかったが、「えむけーふぁいぶ」と口にしたときの長ったらしさを考えると、もしかしたら「MK5」は口語ではなく文語あるいはポケベル語だったのかもしれない。

当時の私ときたら、ポケベルをベルトにつけた、今で言うところのギャル男くんに「万歩計?」とか聞いて、どん引きさせるような地味系女子だったのけれども、一秒間に何文字打てるかと必死になって公衆電話のボタンを連打していた同級生達のことは覚えている。

コギャルではない私も、TVなどのメディアを通じて、コギャルと言われる女の子たちが使っている用語というのを耳にする機会はあって、それをギャグで使って遊ぶという程度のことはしていた。ところが、その中でも「MK5」というのは、なんとなくイマイチな単語だと当時の私は思っていた。それは先述の通り口にしたときの感じが長ったらしく勢いがないというのと、「マジでキレそう5秒前」の略をアルファベットで表すというところに、あまり斬新さを感じなかったからだと思う。ただのアルファベットと数字の組み合わせが、「マジでキレそう5秒前」の略だということには「なるほど〜!」と感心した覚えはあるが、どちらかと言えば略す前の「マジでキレそう5秒前」というフレーズの方が、リズム感もあって気持ちいい。

「ムカつく」・「ウザい」などの、攻撃的なことばが若者のことばとして周知される一方で、そういうことばを簡単に使う心ない行為に対して自重する雰囲気が一部の同級生たちの間にあったことも、冗談にしても使ってみたいと思えなかった理由の一つかもしれない。たとえ、それが自分の気持ちを言い当てたことばだとしても。

とはいえ、今、歳月を経て、このように自分の気持ちをズバッと言い当て、かつ誰にでもわかることばを作ってみようと思うと、これはかなり難しいということに気づく。自分の今の状況を表すことばをいくつか挙げてみよう。

KS1:風邪引く寸前、1日前。
CDN:超ダルい、寝ちゃいそう。
IK10:今、金欠。10円しかない。

…やはり、「マジでキレそう5秒前」を考えついた人は凄い。
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2007年04月18日
世の中で大変なことが起こっていてもテレビや新聞を読まずにいると気づかないことが多い。オリンピックは、一度も見ることがなく閉幕してしまっても何の罪悪感もないけれど、政治ネタや人の生き死にに関わることだと何故か知らないでいたことに申し訳なさを感じる。ニュースにならない多くの死は、どうあがいても知ることができないくせに。

ショッキングな殺人事件の犯人がどこの国籍の者と報道されたかで、誤報だったことを人種差別だととある国が訴えたとか何とかというニュースも出ていた。間違って報道された国は、犯罪と言えばウチと思い込みやがって、という気持ちがあるのかもしれないけれど、報道されることで迫害受ける人のこととか本当に考えているんだろうか。犯人が中国人だろうと日本人だろうと韓国人だろうと、石を投げるやつらに識別できるわけはなし、「ほらみたことか、うちの国じゃなかったろうが」と母国が強気な発言したところで、現地の人間が救われるのか。銃をぶっぱなしたり、石を投げるやつが一番悪いのは言うまでもないけど。

てゆうか、○○人って報道すること自体が偏見にまみれている気がする。犯人逮捕を目的として特徴づけるために人種やら国籍やらを明らかにするならともかく。アジア系だから何?人種の坩堝のお国で小学2年生から住んでる人間を、問題起きたときだけよそ者扱いかよ。

とにかく、銃社会は反対。銃だけが原因じゃないだろうけど、反対。人の死は数の問題じゃないけどさ、でも、あっというまに30人も殺せる武器が簡単に手に入る社会なんて、やっぱおかしい。
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2007年04月15日
安普請:安い費用で、また粗末な材料で家屋を建てること。また、その家。
三省堂提供「大辞林 第二版」より


私は関東の出身なので(?)地震には慣れているほうだと思うのだが、今の部屋に住むようになってから、どう考えても気象庁が発表している震度よりもプラス1くらいの震度を体感している気がする。電車や大風でも揺れるくらいだからしょうがないのか、この建物は。命があるうちに引越しせねばなぁ。

ちなみに、関東は地震は多いが台風はそんなに多くなかったので、本州の南端の方に住んだときは、台風が結構怖かった。今の関西も雷とか酷いし、身の危険を感じなくてもなんとなく怖い。

犬とか小動物が雷を怖れてワタワタしているのを見ると、これは本能的な恐怖なのだなぁと思うけれども、慣れていることはそれほど怖くなかったり、小さい頃はそれほど怖くなかったものが大人になってから怖くなったりすると、経験が左右するものだなとも思う。

だから、私がいくつになって「怖い」と言っても、「カマトトぶってんじゃね」とは言わないでネ。
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2007年04月10日
気がついたらあった新機能 googleのDocs & Spreadsheet BETAを利用してブログを投稿してみる。
パッと見た感じの特徴は以下の通り。

・PCにソフトをインストールしなくても利用できる(これだけでは文書作成ソフトや表計算ソフトが入れてないPCなんてそうそうないだろうから意味がないと思う。)
・オンラインで複数のユーザーが同時にファイルにアクセスして編集が可能である。
・ファイルの変更履歴が残る。また、差分を確認できる。
・PDF形式のエクスポートが可能である。(PDFファイルのアップロード・編集はできない。)
・別途サーバーを用意しなくても、簡単にファイルのWeb公開ができる。また公開する範囲を制限できる。

・DocsにしろSpreadsheetにしろ、単純に従来の機能を比べるならばやはりwordやexcelには劣る。なれてない所為もあるが使い勝手が悪い感じ。描画ツールはない。文書設定は最低限で、余白とか行数・文字数の設定ができるわけではないので、印刷は一度ファイルをPCにダウンロードして既存のソフトで印刷イメージを確認してから行いたい。
・印刷よりもやはりweb公開・共有のためのソフトという感じなので、使い方に関してはbologやhtmlで文書を作成するイメージに近い。
・blog投稿に利用すれば、過去の投稿のバックアップとして利用できる。エクスポート機能のないweblogサービスから別のサービスへ移行するときには便利かもしれない。


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2007年04月09日
 ■昨日は選挙でした。当選より落ちる割合の方が少ない選挙では、私も外さないみたい☆

 ■こないだ、友人とご飯を食べに行ったときの話。長文です…。一人は正社員、一人は契約社員、一人は派遣社員(私)。正社員の子の最近の仕事状況を聞いていたらたまげた。

 その子の最近の仕事ときたら、終電がなくなるまで職場で働いて夜中の3時にタクシーで帰宅したり、もしくは仕事を持ち帰って徹夜したり、土日休日出勤したり、その挙句残業手当はつかず、時給に換算したら500円にしかならなくて泣けてきたという話。私は今までこういう話を聞いたことがなかったわけではないが、どこかで「仕事のやりくりが上手ではないからそんなに残業するはめになるのではないか」という疑いを捨て切れなかった。私自身、残業して私の担当している仕事の内容を全く知らない同僚からもっと手際よくやるようにと注意されたことがあったが、その時も腹立たしさ半分、やはりもっと手際よくこなす方法があるのではと自分を責めたりもした。

 だけど今回この話をしてくれた友人は、私の知り合いの中でもかなり優秀な人だし、とりわけもののさばき方というか処理速度にかけてはズバ抜けた人だったから、ショックだった。というか、仮に同じ仕事をもっと早くこなせる人がいる(あるいは方法がある)のだとしても、だからといって残業が係る個人の責任と言えるわけではない、という今さらなことに気づいた。慣れていない仕事で手際が分からないのは当然だし、全ての組織構成員(社員)が全ての仕事について適切な処理を迅速に行えることは理想ではあるが、それを前提にするのは間違っている。現在のマンパワーのキャパシティを超えた仕事量をこなさないと潰れてしまう組織ならば、そのマンパワーの底上げ(人を増やすという形であれ、初めから優秀な人を雇うという形であれ、教育という形であれ)は組織全体の責任のはずだ。まぁ、世の中どうにもならない人材というのもいるのだろうけど。

 話はちょっとズレた。言いたかったのは、そんな優秀な彼女さえ残業しなければならないというのが世の現実なのか、とすれば私の今の状況のなんと生ぬるいことよ、と聞いていた私が思ってしまったこと。

 どちらかと言えばタフな部類に入る彼女が身体的にも精神的にも追い詰められる程の仕事量をこなさなければならない今の状況を受け入れていく過程は、もちろんそんな仕事したことのない私が全容を知る由もないことだけど、それが「フツーなんだ」と思うことで乗り切れている部分もあるんだろうなと思う。私だけじゃない、みんなそうだ、一般企業で働くってそういうことだ、理想はなんであれそれが普通なんだ、そう思うことが超人間的な労働状況を受け入れることには必要になっているように思う。彼女の語り方は、自分の不遇さを嘆くわけでもなく、まさにそれを普通のことと受け止めようとする淡々とした口調だった。

 それが本当に「普通」なのかどうかはさておき、そう思い込むことが女にとってより困難であることは言うまでもない。「きちんとした仕事」についていなくても責められることのない人生を送っている「女ども」を見ても、男は「女だから許されるのさ」と自分と区別して割り切ることができてしまうけど、一方、女には「自分にももっと違う生き方・働き方があるのでは」という迷いが“許容”されているからだ。自分をいや応なく相対化せざるをえない立場は苦境を乗り切るには脆すぎる地盤だと思う。

 さらに不幸なことに彼女は、負わされる責任という意味ではぬくぬくとした労働環境の中にいる私のような友人を「甘ったれ」と軽蔑するには、聡明すぎるということだ。もしも、彼女が私に「あんたはいいよね」と言えるだけの盲目さがあれば、少しはラクなんじゃないかと思う。自分の現実を受け入れるために「こんなの普通」と思う一方で、その「普通」に当てはまらない生き方を歩む人もまた各々の「普通」を生きていることを認めるということは、そうそうできることじゃないと思う。少なくとも私はできてない。

 世の中には、我こそが一番不幸だというようなドラマに浸ることで自分を慰める部類の人もいる(私とかそんな感じだ)けれど、「誰にも分からない私の不幸」という自分自身への憐憫に浸るのは、理想の状態へ自分が到達できていないことへの言い訳にすぎない。もしも本当に自分の今かかえているしんどさとか苦しみとかそういうものが自分だけにしかわからないのだとしたら人間はそれに耐えることは到底できないと思う。だから、(この労働の話を離れても)しんどい立場にある人ほど、彼女/彼ら自身にとって、「私だけじゃない」とか自分は「普通」であると信じることが、自身の尊厳にかかわる非常に重要な過程になってくるだろうと思う。

 だが、しかし。そうだとしても、私(という立場)は、彼女の置かれているような状況を普通と認めることは、断固「してはいけない」。辛い仕事の話を聞けば、「私のしんどさなんてまだまだだなー」と引け目を感じるし、自分が甘いのも事実だ。

 けれども、たとえ嬉々として残業するような輩がどれだけいようとも、そうしなければ組織がなりたたないのだとしても、それでも一日18時間もの労働を強いられ、その対価が正当に支払われない状況を「普通」と“私が”認めてはいけない。それに対する怒りを“私が”忘れてはいけない。現にしんどい思いをしている者に、「そんな残業はするな」とか「手当てを要求しろ」とか「仕事辞めてしまえば」とかそんなことを言っても意味がないのは分かっているけれど(できるもんならしてるだろうから)、現実を健気に受け入れる者たちの労働によって、甘い汁を吸っているやつらが別にいるということを“私が”忘れてはいけない。甘い汁を吸っているのは、「専業主婦」でも「公務員」でも、もちろん派遣社員やフリーターでもないということを“私が”忘れてはいけない。何かを手に入れる為に別の何かを犠牲にするのが世の摂理だとしても、それが本当に対価に等しい犠牲なのか疑問を差し挟んだり、辛い状況から脱しようと試みたりすることが、意味のないことではないということを“私が”忘れてはいけない。

 正直、このところ誰かが苦労している話を聞くと、他人と自分の人生を引き比べて甘ちゃんな自分に引け目を感じてしまったり、その引け目から「私だって大変/不幸」という物語を作ってしまったりして、自分が嫌になる。「でもね、私もこういうところは大変なの。あなたはその部分では恵まれてるじゃない?」みたいな誰も救われない物語で自分を貶めている。そこに何某かの真実が含まれていたとしても、だ。誰も私がラクしてるとか甘ちゃんだとは言っていないのに。視点ズレまくり。

 自分の思うように生きれなかったことを他人の所為にするのが嫌だから、できるだけわがままな生き方を選んでいるつもりなのに、気がつけば言い訳だらけで生ききれていない自分がいる。ちゃんと生きよう。

 

 

 
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posted by piggy_fsite at 15:13 | Comment(6) | TrackBack(0) | 日記b_entry.gif
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